雨に濡れても─百貨店と、予報の精度
私の記憶では、
昔の天気予報は今ほど当たらなかったように思う。
もちろん、当時にも降水確率はあり、
予報技術も少しずつ進歩していたのだろう。
ただ、少なくとも私の暮らしの中では、
雨は今より少しだけ気まぐれで、
どこか運任せの出来事だった。
空模様を見て出かけ、途中で降られたら軒先に入る。
そんな時間の使い方が、
当たり前のように街の中にあった気がする。
雨の日、百貨店では、
「雨に濡れても」のインストゥルメンタルが
流れていたような記憶がある。
バート・バカラックが紡いだ、
軽やかで、少し肩の力が抜けるような旋律。
館内にその音色が流れると、私はふと窓の外を気にした。
本当に雨の日だけ流れていたのか、
それとも別の日の記憶まで重なっているのか。
それはもう確かめようがない。
けれど私の中では、その曲は館内の照明や、
ガラス越しに見える湿った街の景色と結びついている。
だから音楽が、天気を教えてくれていた。
それは気象情報ではなく、
街の空気がそっと知らせてくれる天気予報だった。
買い物の手を止める人がいて、少し急ぎ足になる人がいる。
誰かが傘を広げ、その様子を見てこちらも空を気にする。
そんな何気ない時間が、店にいた見知らぬ誰かと
静かに共有されていたような気がする。
今はポケットの中の端末が、
雨雲の接近を正確に知らせてくれる。
数十分先の雨まで分かり、傘を忘れることも減った。
予定も立てやすくなった。
便利になったことは間違いない。
その一方で、空を見上げたり、
街の匂いや人の動きから
雨の気配を感じ取ったりする機会は、
少しだけ減ったのかもしれない。
百貨店もまた、昔とは違う形で
天気と向き合っているのだろう。
営業を続けるか休むか。そこには、
雨雲レーダーだけでは測れないものがあるのかもしれない。
天気予報が正確になったからといって、
迷いまでなくなったわけではないのだろう。
街では若い人たちがスマートフォンを見ながら歩いている。
私も同じように雨雲レーダーを確認し、
降り出す前に傘を開くことが増えた。
便利さを受け入れながら、それでも、
ときどき空を見上げる癖だけは残しておきたいと思う。
そんなことを考えていると、雨上がりのアスファルトから、
ふとマスカットのような甘い香りが立ちのぼることがある。
土とも違う。花とも違う。
私には昔から、雨上がりの空気が
そんな果実の香りに感じられる。
その香りに触れた瞬間、昔の雨の日の記憶が、
不意によみがえる。
昔の雨が本当に今と違っていたのか、
それとも歳月が私の記憶を少しだけ優しく塗り替えたのか。
その答えは、もうどこにもない。
ただ、あの頃は予報が少し外れることも含めて、
雨というものを今より大らかに受け止めていたような
気がする。
効率や正確さを手に入れた今だからこそ、
ときには予報ではなく、街の空気や音楽が教えてくれる
雨の気配にも耳を澄ませてみたくなる。
かつて百貨店で耳にした、あの穏やかな旋律とともに。
今でも、「雨に濡れても」を耳にすると、
私は百貨店の照明を思い出す。
あの曲が本当に雨の日だけ流れていたのかは、
もう分からない。
それでも私の記憶の中では、
雨の百貨店にはいつも、あの穏やかな旋律が流れている。
ラベル: 好きな音楽


