5/30/2026

誰も帰ってこなかった未来

 2025年3月。

夜の静岡駅周辺を少し歩いた。

昼間には気にならない広い道路や、
必要以上に明るい照明が、
夜になると急に別の街みたいに見えてくる。

人影はある。

車も走っている。

けれど、どこか現実感が薄い。

古いSF映画の背景画というか、
1960年代の人たちが想像していた未来都市というか。

少々とってつけたような話になるが、
この日、耳にはベンチャーズの『In Space』が流れていた。

信号は律儀に色を変え続け、
車は途切れることなく走っている。

それなのに、街全体は妙に静かだった。

写真を見返しているうちに、
アルバムの中でも
「He Never Came Back(帰ってこない男)」
が頭に浮かんだ。

あの頃の人たちが想像していた未来は、
案外こういう風景だったのかもしれない。

高層ビルが林立するわけでもなく、
空飛ぶ車が行き交うわけでもない。

それでも十分に未来ではある。

ただ、子供の頃に思い描いていた2025年は、
もう少し賑やかな場所だった気がする。

人々はもっと夜の街を歩き、
駅前には今より人の気配があり、
未来というものは少し華やかなものだと思っていた。

便利にはなった。

けれど思っていたのとは少し違った。

ただ広く、明るく、どこまでも整備された夜の街。
「Moon Child」の光に包まれたような雰囲気もいい。

けれど、この夜の静岡には
「He Never Came Back」のほうが似合う気がした。

誰かが帰ってこないのではない。

子供の頃に思い描いていた未来そのものが、
どこかへ行ったまま
戻ってこなかっただけなのかもしれない。

誰も待ってはいない。

誰も急いでもいない。

ただ静かな未来の夜だけが続いていた。

ラベル:

5/04/2026

24年目のEncontro(出会い)──三島広小路の踏切にて

 24年前、熱海がまだバブルの名残をかすかに引きずり、
どこか乾いた静けさに包まれていた頃、
私は三島広小路の街を歩いていた。
前年、ウクレレ教室に通っていたが、そこで、
あまりこの楽器には似合わなそうな
ボサノヴァをひとり弾いてみたいと思うようになった。

アストラッド・ジルベルトの『瞑想』や
『サマーサンバ』を繰り返し聴きながら、もう少し奥へ、
もう少し軽やかな響きを探していた。
湿り気を帯びた音に触れたくて、
手にしたのがワンダ・サーの『Vagamente』だった。

「三島広小路駅」の看板が記憶に残る、いずっぱこの踏切。
鰻の匂いと川のせせらぎが、
ゆるやかに混じり合う場所だった。
その中で、アルバムの一曲が、
不思議なくらい自然に馴染んでいた。

誰に教わるでもなく見つけたその旋律を耳にしながら、
私はそこでひとりの女性と知り合い、やがて別れた。
出来事としては、それだけのことだ。
けれど、その頃の記憶は、
あの曲と切り離せないかたちで残っている。

それから24年。熱海の風景はすっかり変わった。
人の流れも、以前とはどこか違っている。
ちょっとした用事ひとつでも、
足が重くなることがある。

だからこそ、あえて三島広小路へ向かおうと思った。
あの踏切のあたりには、当時と大きくは変わらない
時間の流れが残っている。
人に押されるでもなく、風景が過度に整えられるでもない。
その静けさに触れたくて、カメラを持ち、
あの場所をもう一度訪ねるつもりでいる。

そのときになって、気づいた。

あの頃、三島広小路の風景にこれ以上なく
似合うと感じて聴き続けていた曲のタイトルが、
『Encontro』──
ポルトガル語で「出会い」を意味する言葉だったことを。

当時の私は、その意味を知らなかった。
ただ、場所と音だけが先に結びついていた。
名前は、二十四年遅れてやってきた。

踏切が上がるのを待ちながら、
いまの自分が確かめているのは、
風景そのものというよりも、かつての自分が
そこに何を感じ取っていたのか、
ということなのかもしれない。

カメラが写し出すのは、街の輪郭だけではない。
かすかな歌声や匂い、頬をかすめた風の感触──
そうしたものが折り重なった、ひとつの像である。

その場所で、
私は今日も、あの頃の自分を確かめている。

ラベル:

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