8/12/2025

踊らない者の午後

   今日も、どこかでみんなが元気に踊っているらしい。
街角の壁に立てかけられた
小さなスマホに向かって、手を振ったり、笑ったり……。
ああいう姿は、まるで「ここにいます」
と確かめている合図のように見える。

名もない人たちが、
浅い海へゆっくり沈んでいく光の粒みたいに、
映像を投稿してゆく。
なかには、水族館の片隅で揺れている
チンアナゴのように、
ただ流れに合わせて身体をゆらしながら、
声や仕草を淡く差し出す人もいる。
その細い勇気は、どこから湧いてくるのだろう。

その点、私は「見られない」ことで救われている。
ひっそり暮らして、ひっそり呼吸して、それで十分だ。

SNSは「世界まる見え」だと思われがちだけれど、
あれは実際には、顔や声を知っている
相手だけの小さな部屋だ。

もちろん錯覚の危うさはある。
だからこそ、グループLINEには近づかない。
昔、似たような寄り合いに混ざったが、
長くは続かなかった。

私のツイートだって危ういものだ。
「友達がいない」という身軽さに、
かろうじて支えられているだけだ。

若い頃は「女の子にモテたい」
と素直に思った時期もあった。
けれど今振り返ると、その気持ちは、
どこかで「人より上に立ちたい欲」
と結びついていたのかもしれない。

流行に合わせて無理をしたこともあるけれど、
もともと私は、一人遊びのほうが落ち着く性質だった。
群れに入っていたのは、ただ浮くのが怖かっただけだ。

いまは誰もいない。
自由で、穏やかで……この静けさが、案外いい。

恋愛にしても、私は
「紙の匂いがする距離」で満足してきた。
生身の女性に恋い焦がれたことはなく、
きれいな人から好意を向けられても、
「どんな感じだろう」と軽く触れてみるだけ。

愛情はアクセサリーのようなもので、
短く輝いたら、そっと引き出しにしまう。

昔は、歓楽街の情報なんて簡単には手に入らなかった。
高価なゼンリンの地図を買い、
雑居ビルの店名を眺めながら、
「ここは……そういう店かな」と想像していた。

電話帳だけが頼りで、想像すればするほど怖くなり、
無理に人と仲良くなろうとしていた時期もある。

いまはスマートフォンを開けば、何でも出てくる。
必要なのは、少しの行動力と、わずかな身銭だけだ。

今日もきっと、誰かが
「見られること」を生きるみたいに踊っている。
タイムラインの流れに、
細い身体を揺らすチンアナゴのように。

私は見られないまま、静かな部屋で小さく生き延びている。

──今日も元気に踊っているらしい。私は踊らないけれど。
ラジオ体操ですら、人前では……まあ、難しい。

そんなものなのだと思う。

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