8/25/2025

誠に勝手ながら、今日も明日も明後日も——あなただけを


   誠に勝手ながら、今日も明日も明後日も——
僕は、静かな夜へ移行いたします。

それは業務のためでも、体調のためでもない。
ただ、誰にも属さずに過ごすための、
僕なりの手続きです。

「誠に勝手ながら、明日は業務があるため、
今から静かな夜へと移行させていただきます」

 若い彼女からの
「今度カラオケ行こうよ」に対して、
僕が返すのは、そんな通知のような一文。

断り方に優しさも配慮もない。
たぶん僕は、ピントの合わない男なのだ。

若い子とカラオケに行くと、
彼女が選ぶのは——
言葉が詰まりすぎて、息継ぎの場所を失った曲ばかり。

誰かの痛みを、別の痛みで覆うような旋律が、
部屋の隅々まで染みていく。

僕はただ、風のようなイントロを待つ。
空気が澄み、音が立ち、言葉が届く瞬間を。

そしていつものように、
あおい輝彦の「あなただけを」を選ぶ。

イントロが流れた瞬間、空気がすっと澄む。
まっすぐで、潔くて、どこか懐かしい。

けれど彼女はスマホをいじりながら、
「ちょっとトイレ行ってくるね」と言う。

その背中に向かって、僕は歌い続ける。

「あなただけを」─

 同世代の女性なら、
「懐かしい〜!」と笑ってくれるだろう。
けれど同世代は、なぜか「あなただけに」なりたがる。

一人の人に決めてしまうと、
僕の余白は、鍵をかけられてしまう。

若い子と偶然、カラオケ以外で遊ぶこともできなくなる。

僕はただ、
「あなただけを」歌いたいだけなのに。 

でも——若い子もダメ、同世代もダメ。

結局、僕の居場所は、
モニターに映るあおい輝彦の顔だけ。

おやすみ、野菜。

今夜も僕は、誰にも届かない歌をうたう。
誠に勝手ながら、これからも一人でいたいので、
そっと眠らせていただきます。

誠に勝手ながら、今日も明日も明後日も——
僕は清々しさだけを歌いながら、
誰にも届かないまま、眠らせていただきます。

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8/24/2025

ホンダラ行進曲──命の通過点で


   休日の午後、家にいても落ち着かなくて、
そのまま外へ出た。公園まで歩き、
空いたベンチに腰をおろす。

風も人も、ただ通り過ぎていく。
その流れの端に、自分もひっそり混ざっている。

最近、ときどき思う。
「生きるって、うまく速度がつかない日があるな」と。
深刻さとは少し違う、
底にうっすら沈む重さだけが残る日だ。

そんなときだった。
背後から、まっすぐな声が届いた。

「献血にご協力お願いしまーす」

街のざわめきのなかで、その声だけが素直に耳に残った。
求められているのは、誰かの血液だ。
けれど、缶チューハイが抜けきっていない
身体では応えられない。
断りながら、申し訳なさと、
どこか懐かしさのようなものが胸をかすめた。

求められても応えられない瞬間。
その、ほんのわずかな
距離みたいなものが、意外と身にしみた。

それでも、あの一声のおかげで、
この街の午後は、すこしだけ軽くなった気がする。

生きるのがだるい日もある。
それでも、そのだるさの奥で、
血はいつものように黙って流れている。
思い出させてくれたあの声に、
遅れてそっと礼を言いたい。

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8/20/2025

未来から届いた無表情


   「ポーリュシカ・ポーレ」──
その旋律が、都市の夜に不意に差し込む。

The Spotnicks の演奏は、
感情の磁場を拒むかのように、淡々と響く。

宇宙服をまとった男たちが、
無表情でギターを鳴らすその姿は、
「未来の残響」が、過去の土壌をなぞる儀式のようだ。
歓声は大きい。
熱狂はある。
それでも、
宇宙はまだ遠いまま。

僕らはいつになったら、
あの見えない軌道へ届くのだろう。

乾いた問いだけが、
夜気のなかに取り残されている。

無重力希望者より。

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8/18/2025

我が日本昔話──マグロと沈黙


   いま思えば、もうほとんど幻のような回転寿司屋だ。
寿司は、ベルトに乗る前に、
ちゃんと人の手で握られていた。
その所作には、急ぐ様子も、
愛想もなく、ただ静かな誇りだけがあった。

私はマグロが食べたかった。
けれど、待っていても、なかなか回ってこない。
注文するには、席の手前に据えられたマイクに向かって、
「マグロッ」と声を張らなければならなかった。
それは注文というより、自己主張の儀式だった。

内気だった当時の私は、
その儀式をどうしても通過できず、
ただ黙って、皿の流れを眺めていた。
マグロは遠く、声は喉の奥で固まったままだった。
空腹だけが先に育っていく。

それでも私は、回転トレイの上に
握りのマグロが置かれる瞬間を待ち続けた。

だが、やはり回ってこない。
不渡り、というやつだ。
マイクに向かう勇気は、最後まで湧かなかった。
仕方がないので、サーモンで繋いだ。
妥協というより、無言の抵抗だった。

時は流れ、いまの私は、
某俳優のような声色で「マグロッ」と言える程度には
図々しくなった。
振り向きざまに、ひと言。

それは自己主張というより、
ちょっとした演技、あるいは芸だった。

――と思った、その瞬間。
寿司屋は、すでにタッチパネル注文に変わっていた。
マイクは沈黙し、声は不要になった。
「内気のままでいいんだよ」と
言われているようでもあり、
「余計なことはしなくていい」と
釘を刺されているようでもあった。
声を張り上げる必要のない、静かな進化。
これは、我が日本昔話。
マグロをめぐる、ささやかな文明史だ。 

ボタンを押せば、黙ってマグロが流れてくる。
もう「マグロッ」と叫ぶ声は、
誰からも求められていない。
芸の出番も、儀式もない。
残されたのは、寿司でもなく、私でもなく、
無言で光る、液晶のボタンだけだった。

そう考えると、
マグロも、私も、
最初から居ても居なくても
よかったのかもしれない。

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8/12/2025

踊らない者の午後

   今日も、どこかでみんなが元気に踊っているらしい。
街角の壁に立てかけられた
小さなスマホに向かって、手を振ったり、笑ったり……。
ああいう姿は、まるで「ここにいます」
と確かめている合図のように見える。

名もない人たちが、
浅い海へゆっくり沈んでいく光の粒みたいに、
映像を投稿してゆく。
なかには、水族館の片隅で揺れている
チンアナゴのように、
ただ流れに合わせて身体をゆらしながら、
声や仕草を淡く差し出す人もいる。
その細い勇気は、どこから湧いてくるのだろう。

その点、私は「見られない」ことで救われている。
ひっそり暮らして、ひっそり呼吸して、それで十分だ。

SNSは「世界まる見え」だと思われがちだけれど、
あれは実際には、顔や声を知っている
相手だけの小さな部屋だ。

もちろん錯覚の危うさはある。
だからこそ、グループLINEには近づかない。
昔、似たような寄り合いに混ざったが、
長くは続かなかった。

私のツイートだって危ういものだ。
「友達がいない」という身軽さに、
かろうじて支えられているだけだ。

若い頃は「女の子にモテたい」
と素直に思った時期もあった。
けれど今振り返ると、その気持ちは、
どこかで「人より上に立ちたい欲」
と結びついていたのかもしれない。

流行に合わせて無理をしたこともあるけれど、
もともと私は、一人遊びのほうが落ち着く性質だった。
群れに入っていたのは、ただ浮くのが怖かっただけだ。

いまは誰もいない。
自由で、穏やかで……この静けさが、案外いい。

恋愛にしても、私は
「紙の匂いがする距離」で満足してきた。
生身の女性に恋い焦がれたことはなく、
きれいな人から好意を向けられても、
「どんな感じだろう」と軽く触れてみるだけ。

愛情はアクセサリーのようなもので、
短く輝いたら、そっと引き出しにしまう。

昔は、歓楽街の情報なんて簡単には手に入らなかった。
高価なゼンリンの地図を買い、
雑居ビルの店名を眺めながら、
「ここは……そういう店かな」と想像していた。

電話帳だけが頼りで、想像すればするほど怖くなり、
無理に人と仲良くなろうとしていた時期もある。

いまはスマートフォンを開けば、何でも出てくる。
必要なのは、少しの行動力と、わずかな身銭だけだ。

今日もきっと、誰かが
「見られること」を生きるみたいに踊っている。
タイムラインの流れに、
細い身体を揺らすチンアナゴのように。

私は見られないまま、静かな部屋で小さく生き延びている。

──今日も元気に踊っているらしい。私は踊らないけれど。
ラジオ体操ですら、人前では……まあ、難しい。

そんなものなのだと思う。

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8/04/2025

ひとりでも、いいんですよ


   先日、散歩の途中で、
小さな居酒屋の店先に置かれた看板に足が止まった。

「うさぎの8倍ナイーブなあなたでも、
一人で入れるお店です」

いたずら書きのような、やわらかい文字。
その調子に、ふっと心がゆるんだ。

その瞬間、同じ店の入口にあった、
もうひとつの看板を思い出した。

2004年の秋──この店はやはり控えめに
「ひとりでもどうぞ」と告げていた。

文面は忘れた。
けれど、入口に漂っていたあの遠慮がちな
気配だけは、今もよく覚えている。

あの頃は、個人店の扉をひとりで開けることに
まだ少し緊張が残っていた時代だったと思う。

チェーン店なら気にせず入れる。
けれど街の喫茶店や食堂は、どこか敷居が高かった。

スマートフォンも、絶えず言葉が流れるSNSも、
まだ暮らしの中心にいなかった頃だ。

誰かの反応を添えて食事を味わう必要もなく、
見せるための時間を生活に組み込む習慣もなかった。

そんな時代に、この店はひっそりと
「ひとりでも、大丈夫ですよ」と
誰かに届くかどうかもわからない声を
置いていたのだと思う。

もっとも、当時の私はひとりでは入れず、
ボサノヴァが好きという
共通の話題で知り合った女性と訪れた。
結局、この店の扉を開けたのはその一度きりだ。

二十年近く経ったいま、街には
写真映えを促す言葉や、
投稿されることを前提にした仕掛けが
あちこちに並ぶようになった。

それもまた、いまの時代のかたちだ。

ただ──
同じ調子で「ひとりでも、いいんですよ」
と掲げられた看板を前にしたとき、
2004年の入口にあった静かな声が
ふいに重なって聞こえた。

時代より少しだけ先に、
そっと気遣いを置いていた店だったのだ。

変わっていくものと、変わらないものがある。
どちらに心が動くのかは、人それぞれだろう。

私はただ、
変わらずそこにあった気配を見つけて、
立ち止まっただけだ。

— いまさんより

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