静けさのかたち
角形フードをつけたカメラを、まじまじと眺めた。
思っていたよりも、ずいぶん優しい顔をしている。
動画を撮る人の目には映らないかもしれないが、
それでいい。
最近のデジカメ紹介は、動画性能とSNS連携の話ばかりだ。
「静かに撮ること」そのものが、
どこかに置き去りにされている気がする。
シャッターを切るとき、誰かのためではなく、
自分の呼吸に合わせたいと思うようになった。
息を吸って、吐いて、その流れの中でそっと切る。
それだけの行為が、今ではとても貴重に感じられる。七間町のベンチに腰を下ろし、通りを抜ける風に
身を委ねて目を閉じていたら、
ふと誰かを待っているような気持ちになった。
静かな通りだが、不思議と居心地は悪くない。
この感じは、案外自分に
合っているのかもしれないと思う。何気なくシャッターを切った。
写っていたのは街そのものというより、
何かを探していた頃の自分だった。
かつて賑わいを知っている街ほど、今の静けさが際立つ。
けれど大切なのは、「街がどう変わったか」よりも、
「その空気を自分がどう受け取っているか」なのだろう。
賑わいは、いつも外側にあるとは限らない。
以前は、看板の笑顔や明るい照明を、
そのまま華やかさだと思っていた。
だが今になって考えると、
それもまた演出の一部だったのだと分かる。
写真に修整があるように、街の光にも仕組みがある。
それでも、理屈では説明できないのに、
どうしても立ち止まってしまう場所がある。
それがきっと、「記憶」というものなのだ。
誰かの物語になぞらえる聖地巡礼ではなく、
自分の人生にだけ意味を持つ場所。
先日、その続きを見に行った。
何かが大きく変わったわけではない。
ただ、今も変わらずそこに在ってくれた。
それだけで、思わず「よかったな」と思えた。
誰にも届かなくてもいい。
反応も、評価も、説明もいらない。
ただ、自分のなかに残る光景を、
足音を立てずに記録する。
このレンズが捉えたものが、
どこかで自分を支えてくれるなら、それで十分だ。
あてもなく歩いていると、ふとした場所に出会う。
それをそっと持ち帰り、今日という日に名前をつける。
お散歩写真機とは、たぶんそういうものなのだろう。
——そんなふうに撮る日々が、
これからも静かに続いてくれればと思う。
ラベル: お散歩写真機





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