7/29/2025

あの日を最後に、映画館には行っていない──2012年7月29日


   今日、映画「ヘルタースケルター」を観てきた。

主演女優が体当たりで演じるシーンの数々は、
目をそらせば失礼な気もするし、じっと見つめるのも
気まずいような、そんな空気だった。

スクリーンに映し出される身体は、
鮮烈で、衝撃的で、どこか儚かった。
だけど不思議なことに、
どういう胸のカタチをしていたのか、
もう思い出せない。

たぶん、右隣に彼女がいたからだ。
ほんの少し近づきつつある関係。
映画の内容が濃ければ濃いほど、
その無言の距離に自分が揺れた。

昨日の安倍川の花火といい、今日の映画といい──
この二日間は、甘っちょろい言い方だけど、
ようやく自分も人並みになれた気がした。

明日からはまた、静かに、少し面倒で、
くたびれた日々に戻っていくと思う。
だけど、それもまた、いいのかもしれない。
この夏の二日間くらいは、
思い出にしても許される気がする。

◆2012年7月29日。
この日を最後に、映画館には一度も行っていない。
右隣の気まずさも、スクリーンの眩しさも、
そのまま夏に置き去りにしてきた。

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7/21/2025

まだ夜でもないのに── 恋の歌が、やけに沁みる時間がある


   ナンシーとフランクの
「Somethin' Stupid」を久しぶりに流した。

やっぱり、どう聴いても美しい。
淡くて、無駄がなくて、文句のつけようがない。

なのに、その完璧さに触れた瞬間、
こちら側が少しだけ居心地悪くなる。

くたびれたTシャツ、スナック菓子、
乾ききらない洗濯物の匂い──
そんな夕暮れの部屋に、
「恋のひとこと」は似合っていない。

分かっていても、再生を止めないのは、
美しさへの憧れか、
そこに手が届かない自分への、
妙に乾いた諦めか。

ふたりの声が重なるたびに、
こちらの惨めさまで
一緒に混ざっていく気がする。

そして、それを悪くないと思う自分が、
案外いちばんどうしようもない。

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7/11/2025

照明と私と串カツ田中(せんべろ編)


   十年ほど前の晩、
マツモトという男と入った串カツ田中の写真が出てきた。
店内は薄暗く、壁も床も油の匂いがしみついていた。
串カツは安くて、少し重たくて、
それが妙に落ち着いたんだよな。

あのときの照明は、通天閣のふもとの空気を、
そのまま店に連れてきたような灯りだった。
あの光の下では、時間の輪郭が少しぼやけて見えた。

そんなことを思い出して、
昨日ふらっとその店に寄ってみた。
財布の中身と気分を天秤にかけて、
軽く一杯だけのつもり。
いわゆる、センベロってやつだ。
入ってみると、見事に様変わりしていた。
やたら明るくて、串カツ屋というより
今どきのカフェみたいだ。

「無限串カツ」なんて旗が立っていて、
小ぶりの揚げ物が無制限に食べられるらしい。
空腹には危険すぎる誘惑。
その心意気は悪くない。

けれど、誰でも入りやすいその裏には、
誰にとっても特別じゃないという空気があって、
ああ、そういうことか、と腑に落ちた。
串カツをかじりながら、ふと十年前の、
あの油っぽい静けさが恋しくなった。
暗い照明の下、誰にも見られていない気がして、
マツモトとどうでもいい話をしていた夜。
あれはあれで、悪くなかったな。

カウンターの向こうでは、感激してるでもなく、
退屈そうでもない顔のおじさんが、
黙々と串カツをつまんでいた。
……(たぶん、それが私だった)。
還暦か。いや、その手前か。
もうそのへんは、よくわからない。
というか、誰かに見てもらわないと、
自分がどっち側なのかも怪しくなってくる。
そんなことを考えていたら、
いつの間にか、ハイボールが一杯、
カウンターに置かれていた。

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7/01/2025

静けさのかたち


   角形フードをつけたカメラを、まじまじと眺めた。
思っていたよりも、ずいぶん優しい顔をしている。
動画を撮る人の目には映らないかもしれないが、
それでいい。

最近のデジカメ紹介は、動画性能とSNS連携の話ばかりだ。
「静かに撮ること」そのものが、
どこかに置き去りにされている気がする。

シャッターを切るとき、誰かのためではなく、
自分の呼吸に合わせたいと思うようになった。
息を吸って、吐いて、その流れの中でそっと切る。
それだけの行為が、今ではとても貴重に感じられる。
七間町のベンチに腰を下ろし、通りを抜ける風に
身を委ねて目を閉じていたら、
ふと誰かを待っているような気持ちになった。
静かな通りだが、不思議と居心地は悪くない。
この感じは、案外自分に
合っているのかもしれないと思う。
何気なくシャッターを切った。
写っていたのは街そのものというより、
何かを探していた頃の自分だった。

かつて賑わいを知っている街ほど、今の静けさが際立つ。
けれど大切なのは、「街がどう変わったか」よりも、
「その空気を自分がどう受け取っているか」なのだろう。
賑わいは、いつも外側にあるとは限らない。

以前は、看板の笑顔や明るい照明を、
そのまま華やかさだと思っていた。
だが今になって考えると、
それもまた演出の一部だったのだと分かる。

写真に修整があるように、街の光にも仕組みがある。
それでも、理屈では説明できないのに、
どうしても立ち止まってしまう場所がある。
それがきっと、「記憶」というものなのだ。

二十八年前、確かにここで息をしていた。
誰かの物語になぞらえる聖地巡礼ではなく、
自分の人生にだけ意味を持つ場所。
先日、その続きを見に行った。

何かが大きく変わったわけではない。
ただ、今も変わらずそこに在ってくれた。
それだけで、思わず「よかったな」と思えた。

誰にも届かなくてもいい。
反応も、評価も、説明もいらない。
ただ、自分のなかに残る光景を、
足音を立てずに記録する。
このレンズが捉えたものが、
どこかで自分を支えてくれるなら、それで十分だ。

あてもなく歩いていると、ふとした場所に出会う。
それをそっと持ち帰り、今日という日に名前をつける。
お散歩写真機とは、たぶんそういうものなのだろう。

——そんなふうに撮る日々が、
これからも静かに続いてくれればと思う。

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