おのぼりさんの記憶
恩賜上野動物園で、ふと耳にした声があった。
「観ろよヴィーナス、これがダビデ象だ……」
男の声は、たしかにどこか酔っていた。
酔っていたのは酒のせいか、
それとも東京という町そのものだったのか。
傍らのヴィーナスは、白けた目で
象の耳あたりを眺めているだけだった。それからしばらくして──
静岡県島田市、川根町身成。
昨日、二月十一日は「初午いなりの日」だという。
初午そのものの日とは、どうやら少しずれるらしい。
朝、茶をすすりながら
新聞の折り込みチラシを広げて、
はじめてそのことを知った。
スーパーの広告には、どこか気の抜けた色合いの
「えなり寿司」が写っている。
えなり寿司。
誰が名付けたのか、少し首を傾げたくなる名前だ。
その写真を見た瞬間、ふいに思い出したことがある。
私がまだ「東京」に対する幻想を、
完全には捨てきれなかった頃の記憶だ。
浅草と浅草橋を間違えた、初めての上京。
駅のホームで、方角も分からないまま
立ち尽くしていた自分。
旅の処女作、とでも言えばいいのだろうか。
あるいは「おのぼりさん」と
題したくなる、少し赤面ものの思い出。
東京には、たしかにダビデ像もあった。
けれど、それ以上に鮮明なのは、
ワサビの効きすぎた巻き寿司の味と、
チラシの端で微笑んでいる、えなり寿司の写真。
記憶というのは、案外そんなものなのかもしれない。
ラベル: 長い文章


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