2/25/2025

変態望遠鏡、再び──SLぽいの好きという病


   久しぶりに、
電車のいる風景を撮った。

小学校五年。まだ陰気が肌に馴染む前の頃、
大井川鐵道の塩郷駅に通っては、
SLの煙の向こう側に、
ぼんやりとした未来を見ていた。

それから幾年。
透けるように歳を重ねても、
私はまだレンズの先に
何かを探している。

今は静岡鉄道の長沼駅。
性格の影は、2025年になっても
相変わらず薄く残っている。
車両たちは、
色とりどりの菓子箱のように並んでいた。
真ん中の一台だけが、
懐かしい光をまとっている。

しんしずおかから
うんどうじょうまえまで、
どうしようもない大人になってから
何度となく乗った車両だ。

左右の新型には、一度も乗ったことがない。
だから次の休日には、
久しぶりにしんしみずまで
ガタンゴトンと揺られてみようかと
思っている。

映える写真が撮れるとか、
SNSで騒がれているとか、
そんな理由ではない。
今月のフリーペーパー『すろ〜かる』の
片隅に載っていた写真を、
たまたまめくっただけだ。
誌面によれば、
真ん中の1008号車は
昨年、2024年6月30日に
ラストランを迎えたらしい。
いま目の前にいるその姿は、
陽だまりの中で静かに
余生を送る老車両そのものだった。
ふと望遠から広角に切り替えると、
風景が急に模型のように
整いすぎて見えた。
小さくて、かわいらしくて、
そして少し切ない。

横を見ると、
柱に「防犯カメラ作動中」の文字。
記録のどこかに、
うつむき気味の私が
しっかり映り込んでいるのだろう。
まあ、鉄道マニアに分類されるほど
好きというわけでもないのだが。

ただ、私はどうやら
変態望遠鏡のくせに
意外と王道が好きらしい。
その矛盾を抱えたまま、
今日もまたピントを合わせてしまう。

ファインダーの奥にあったのは、
電車というより、
ゆっくりと錆びていく
静岡の午後だった。

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2/18/2025

ハートをグッと引き寄せたいかい?──望遠レンズ購入記念に──


   少年が帽子をかぶっていた。
いや、もしかするとかぶらされていたのかもしれない。
そう思わせるのは、この像が長い時間を
受けとめてきた証のように見えたからだ。

新しく手に入れた200ミリの
望遠レンズを試したくて、
私は久しぶりに八幡山へ向かった。
小高い丘のような山だが、
登るほどに心臓はグッ…というより、
ぎゅうっと抱きしめられるように痛む。
ときめきとは無縁のその「ぎゅうっ」に、
思わず「救心を…」と自嘲気味につぶやく。
年齢のせいだけではない、と信じたい。
頂上にある「少年とチャボ」の像に、
私が初めてレンズを向けたのは──たぶん四十数年前。
祖父母宅のアルバムに残る一枚の写真が、
その記憶を静かに引き寄せる。

1978年(昭和53年)。
像が設置された日の式典らしき場面。
亡き祖父が、当時の静岡市長・荻野準平氏の近くで
写っている。
拍手をしながら、少年とチャボへ
優しい視線を向けていた。
望遠レンズ越しに像を見ると、
そのときの祖父の笑顔までもが、
ふっと手元へ引き寄せられてくるようだ。

望遠とは、過去に触れるための
装置でもあるのかもしれない。
像の少し横に、新しい案内板が立っていた。
十年前にはなかった山々の説明。
八幡山は派手な観光地ではないが、
地元の人にとっては時の層が積もる静かな場所だ。
ファインダーの向こうに富士山が見える。
手を伸ばせば届きそうなほどの近さ。
200ミリのレンズが、
その巨大な山塊をひょいと引き寄せてしまう。
不思議な魔法だ。

富士山といえば──1993年の夏、
富士宮ルートから登ったことがある。
地下足袋とTシャツ姿で、あっさり高山病。
泉ピン子さんも驚くような「ピンチ」だったが、
なんとか頂に着き、火口を一周した。
帰宅後は首から上の皮膚がボロボロに剥けた。

今なら「もう充分です」と笑って言える。
老いとともに
遠ざかっていくこともあるが、望遠レンズは、
かつての自分さえ引き寄せて見せた。
35ミリの画角にて
35ミリに切り替えて、構図を変える。

少年とチャボ、その背後に竜爪山。
47年の時を超えても、少年は変わらぬ姿でそこにいる。
再び少年とチャボ、そして竜爪山
竜爪山(りゅうそうざん)は、
つい「りきどーざんっ!」と叫びたくなる名前だが、
もちろん関係はない。
ただ、空に背筋を伸ばすその姿が
どこか雄々しく、像の素朴さとよく似合っていた。
望遠は、遠いものを手元へ連れてくる。
山も、記憶も、祖父の笑顔も。
そして、長く離れていた自分自身さえ。

今日、八幡山でシャッターを切りながら思った。
距離があるから見えたものもあるが、
距離を縮めることでしか気づけないものもある、と。

レンズをしまうと、胸の
「ぎゅうっ」はもうどこかへ消えていた。

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2/14/2025

尾崎、今年もまた


   二月も半ばに差しかかるというのに、
今年はまだ──節分の日でさえも、
尾崎豆を食べそびれてしまった。

あの日は、どうにも節分らしさがなかった。
鬼も訪れず、
豆まきの声も聞こえない。

豆を撒かずに年を重ねる。
そんな静かな節目も悪くはないが、
やはりどこか物足りない。

思い出すのは、ちょうど一年前。

二月五日の夜、
突然、雷鳴が落ち、冷たい雨が屋根を叩いた。

あれはもう雨というより、
ちょっとしたお叱りのように思えた。

その日の僕は、
「また尾崎かよ……」と呟きながらも、
年の数だけ豆を数え、口に運んだ。
しかも前々日にも食べていたというのに。

それでも、そんな律儀な自分を
嫌いではなかった。

あれから一年。
今年の空は静かだ。
雷も雨も降ってこない。

けれど不意に、あの香ばしさが
舌のどこかに戻ってくることがある。

記憶は、ときどき味になって
よみがえる。

そうだ。
今年はまだ尾崎を食べていない。

来年こそは──
少しだけ律儀なふりをしてみてもいい。

(文・節分太一)

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2/13/2025

苦笑い?スタァ誕生


   きょう 2月13日は、
「平民に苗字を名乗ることが義務づけられた日」
だという。

それでも僕は、自分の苗字に
いつまでも借り物めいた違和感がある。

サン付けでも、呼び捨てでも、
しっくり来ない。
遠くから当てられているような感じがする。

だったらいっそ──
名前さえあれば十分なんじゃないか。
庶民らしく、気楽に。

…と強がりつつ、
下の名前をまっすぐ呼び捨てにされると
くすぐったいほど嬉しい自分がいる。
この矛盾を飼いならすのは、なかなか骨が折れる。



思い出すのは、苗字がまだ
「その人らしさ」の中心じゃなかった頃。

「蔵ん前のおすずさん」
「山根のおもとさん」

名前のうしろに
小さな暮らしの風景が結びついていて、
呼べばそのまま人となりが立ち現れた。

あの呼び方には、
どこかあたたかな体温があった気がする。

そういえば僕、
おすずさんにも、おもとさんにも
ちょっとした憧れを抱いていた。
呼びかけるたび、
胸の奥が少しだけ騒いだものだ。

苗字がないほうが、
人と人が自然に近かった。
そんな記憶が、今日も名前の端で息をしている。

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2/12/2025

おのぼりさんの記憶


   恩賜上野動物園で、ふと耳にした声があった。
「観ろよヴィーナス、これがダビデ象だ……」

男の声は、たしかにどこか酔っていた。
酔っていたのは酒のせいか、
それとも東京という町そのものだったのか。
傍らのヴィーナスは、白けた目で
象の耳あたりを眺めているだけだった。
それからしばらくして──
静岡県島田市、川根町身成。

昨日、二月十一日は「初午いなりの日」だという。
初午そのものの日とは、どうやら少しずれるらしい。

朝、茶をすすりながら
新聞の折り込みチラシを広げて、
はじめてそのことを知った。

スーパーの広告には、どこか気の抜けた色合いの
「えなり寿司」が写っている。

えなり寿司。
誰が名付けたのか、少し首を傾げたくなる名前だ。

その写真を見た瞬間、ふいに思い出したことがある。
私がまだ「東京」に対する幻想を、
完全には捨てきれなかった頃の記憶だ。

浅草と浅草橋を間違えた、初めての上京。
駅のホームで、方角も分からないまま
立ち尽くしていた自分。

旅の処女作、とでも言えばいいのだろうか。
あるいは「おのぼりさん」と
題したくなる、少し赤面ものの思い出。

東京には、たしかにダビデ像もあった。
けれど、それ以上に鮮明なのは、
ワサビの効きすぎた巻き寿司の味と、
チラシの端で微笑んでいる、えなり寿司の写真。

記憶というのは、案外そんなものなのかもしれない。

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2/11/2025

MRI検査を前にして──小さな悲劇

 ビー・ジーズが頭の奥で鳴っている。
なぜだろう、ニューヨークの地下で汗まみれに働く
炭鉱夫の姿まで勝手に浮かんでくる。
不安とは、脳内の選曲にまで口を出すものらしい。
病院から届いた注意書きには、素っ気なく
「ヒートテック着用不可」とあった。
どうやらMRIという機械は、
人の温もりの仕掛けにも敏感らしい。
薄い検査着一枚で横たわる未来を思うと、
冬の空気が早めに肌へ触れてくる。
そして続く注意書き。
「カラーコンタクト・カツラなどの装飾物は禁止」
虚飾はいったん外し、内臓の輪郭まで差し出せ、
と言われているようだった。
端に描かれたイラストはどれも気が抜けていて、
こちらだけが妙に身構えている。
※補足:
実際の書類をそのまま載せるのははばかられたので、
AIでおとなしく描き直してある。
 
ふと、昔のことを思い出す。
掲示板をさまよいながら、
「これだ」と思う画像を拾っていた頃だ。
見つけたものは、そっと保存した──

そう、あの頃はまだフロッピーディスクだった。
音も記憶も、指先ひとつで巻き戻せた時代。
身体の中身まで誰かに見せる必要など、
どこにもなかった。
 
検査の日が近づくたび、
いまの自分がどこまで剥がされるのか少し考える。
けれど、巻き戻しのきかない年齢になっても、
まだこうして笑える自分が残っているなら、

それで十分だと思う。

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愛はえらべるPayでは買えない──ベンチに並ぶ背中

 ショッピングモールのトイレ前。
腰を落ち着けるために置かれたベンチには、
だいたい決まった顔ぶれが座っている。

モールに居場所を見つけきれなかった
男子たちの、一時的な待機所だ。

不思議なことに、
誰ひとり眠ってはいない。

みんな同じ姿勢で、
ひたすらスマホを見つめている。

その光景は、
スケッチブックに描き留めたくなるほど
揃いすぎるほど、真剣だ。

まるで、
同じモデルを囲んで
ポーズを写し取っている途中のような、
静かな集中。

それを横目に、ふと思う。

いいな、と。

情熱を注ぐ対象が、
ちゃんと手の中にあるということが。

静岡のオマチ。
信号待ちのあいだに前後左右を見渡すと、
誰もが何かに夢中だ。

画面の向こう側にある何かを、
黙々と追いかけている。

けれど、
誰かそのものに夢中な人は、
思ったより少ない。

愛は、えらべるPayでは買えない。

街が姿を変え、
店が消え、
流行が行き来するように、
考え方も、価値観も、
これからも更新されていくのだろう。

それでも、
愛だけは
アプリの一覧には並ばない。

そうであってほしい、
という気持ちだけは、
まだ手放さずにいたい。

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2/04/2025

廃墟の鳩と、ヨーカドーの白い影


   今夜はGS──いや、ガソリンスタンドではない。
ふと胸の奥で、グループ・サウンズの残響がゆらぎ、
気づけば「廃墟の鳩」を聴きたくなっていた。

古いアルバムをめくると、店先を写した一枚が出てきた。
あの頃、ヨーカ堂から鳩のマークが消え、
7&iのロゴだけが取り残されていた短い季節のことだ。
店は変わらずそこにあるのに、
街の空気だけがどこか薄く、
輪郭のぼやけた白さが漂っていた。
思い出すのは、建物の縁から
ふわりと飛び立った一羽の白い鳩。
その記憶は、まるで二階、三階、
五階と誤解まで入り混じるほどに曖昧なのに
その白さだけはやけに鮮やかに残っている。

そして今、鳩はロゴにも、店先の現実にも戻ってきた。
ヨーカ堂の柱の縁で、「ここが定宿だ」
と言わんばかりの顔つきで羽を休めている。

写真を並べてみると、鳩のいなかった頃と、
戻ってきた今とでは、店がまとう気配がまるで違う。
ロゴひとつで、街の温度まで変わって
しまうのだから、不思議なものだ。

そんな写真を眺めているうちに、
中学一年のあの日を思い出した。
三分間スピーチという無茶な企画。自分の番が来て、
頭の中が真っ白になり、最後に
すがったのがザ・タイガースの「廃墟の鳩」だった。

アカペラで歌い出した瞬間、教室がざわめいた。
先生もクラスメイトも、意外な選曲と、
勢いだけで踏み出した自分をおかしそうに笑った。
あれはいまでも、小さなポケットの奥にしまった
青春の欠片として、静かに息をしている。

看板に鳩が戻ったという事実が、
その記憶とどこか重なる。
街の色彩がひとつ、
そっと息を吹き返したように思えるのだ。

鳩のマークが戻った店先を横目に、白い影にごくわずか、
あの頃の自分を重ねてみる。
静かに「廃墟の鳩」を思い浮かべながら。

ラベル:

2/02/2025

歌会始の儀風ぅぅにっき~~~~~~~~~


   2001年10月28日(日曜日)

「雨、雨、雨」

今日はず~~~~っと雨が降ってた。
僕はず~~~~っと日記帳ホームページの
htmlをいじくってた〰️

なんかものすご~~~く楽しかったと
思う反面、なんかやっぱり
すこ~~~~し物悲しかった。

妹にチョコエッグの買い物を頼んだら
た~~~~~~くさん買ってきた。
動物シリ~ズ第5弾は
いつコンプリ~~~~ト
するのだろうか?

夕方、
なぜかず~~~~~~~っと
メル交換続いてる
ぎゃるまま~~~~~~~~と
ヤフーメッセンジャ~~~した。

なんかあのコは僕が
悲しくてやりきれな~~~~~い
時にタイミングよくPCを
ネットに繋いでいる~~~~んだ。

僕はすこ~~~~~~し嬉しかった。

夕食はとろろいもだった。
ねべねば~~~~~~~としていた。
あまりとろろは
すき~~~~~~じゃないんだ。

あぁ、明日からまた
なが~~~~~~~~~1週間が始まるな。
頑張るしかな~~~~~~い。

水曜日は会社を
有給休暇する~~~~~んだ。
友達とあそ~~~~~~ぶヨ・テ・イ
ィィィ

胃?

ホントはあまり休みたく
な~~~~いんだけど。
僕はすご~~~~~~く
真面目だからねぇぇぇぇえ

以上、
歌会始の儀風
にっき~~~~~~~~~でした。

天皇皇后両陛下ただいま静岡にいます。

◆2001年の僕よ、なぜそんなに伸びているのか。
そしてなぜ「胃?」なのか。

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2/01/2025

耳を塞いだまま、街は変わっていた

 
   久しぶりに静岡駅近くのガストへ寄った。
注文用タブレットに「猫さん到着」の通知が浮かぶ。

なんでも可視化されて、
機械が教えてくれる時代になった。
その文字を見た瞬間、ふと、
ある午後の情景がよみがえった。

店内の少し離れたテーブル。イヤホンで耳をふさぎ、
スマホに沈み込んだままの女性。
その前で、所在なげに立ちつくす「猫さん」─

猫さんは、何度かそっと視線を送っていた。

「ねえ、こっちを向いてよ」と、
肩ごと話しかけるように。

けれど彼女は気づかない。
そこに見えない膜でも張られているようだった。

私は、ただ見ていた。
助けなくて済む距離を、どこかで保っていた。

──つめたいな。そう思いながらも、
もう咄嗟に声をかけられる年齢
でもなくなった気がしていた。

話が短すぎるのも芸がないので、少し寄り道をしよう。
(15年前の写真)

(現在の写真)
青葉シンボルロードで、15年前と同じ構図で写真を撮った。
写っているのは木と歩道と街灯だけ。
けれど、その中にこそ確かな「減り」があった。

静岡の街は、どこか薄くなった。
喫茶店も古本屋もレコード屋も、気づくと消えていた。
街の明かりは減り、人通りは静まり、
残ったのはガストとサイゼリヤ――そんな印象さえある。
安くて明るいのに、どこかしんとしている。

店内ではエアーポッズを耳に埋めた若者が、
無言でハンバーグをつつきながら動画を見ていた。
──これを「外食」と呼べるのだろうか。

せっかく街に出ても、
音も気配も、スープの湯気すら届いていない。

その足で「オマチ」を少し歩いた。
最近、ガールズバーがやたらと増えている。
以前はほとんど見かけなかったのに、
今では路地ごとの新顔みたいに並んでいる。

地元の観察者として、一度は見ておくべきかと思い、
社会見学のつもりで足を踏み入れた。

カウンターの向こうには、二十歳そこそこの女性たち。
会話とお酒が並ぶ、柔らかな空気。

けれどその途中に挟まれる
「一杯いただけますか?」
のひとことが、ふと現実へ引き戻す。
そこには癒しではなく、「値札の気配」があった。

若い男たちは、きっとそこに非日常を見るのだろう。
同級生とは違う、でも同級生のように
話しかけてくれる「女の子」─
それはたぶん、ちょっとした魔法だ。

でも私は、その魔法に入れなかった。
何を差し出せばいいのか、もう分からなかった。

街の片隅で、何者にもなれなかった自分だけが、
カウンターに置き去りになっていく気がした。

もし、こう尋ねられたら――

「昔の同級生に会いたいですか?」

私はきっとこう答える。
会わなくていいよ、と。

耳を塞いだまま、街は変わっていた。
気づくのは、いつも少し遅い。

ラベル:

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