12/12/2024

静岡の昔に触れる午后


   その本を開くと、紙の繊維に染みこんだ古い街の湿度が、
そっと指先へ移ってくる。
私が撮ってきた記録よりも、さらに昔の静岡──
いまではもう確かめようのない輪郭が、
ページの奥で静かに息をしている。

思わず呟いてしまった。

「こんなに昔の静岡市って、ハイカラだったんだ…」

ページをめくるたびに、
当時の街路の光がこちらへ伸びてくる。
そして同時に、「これはどこから撮ったんだ?」
と首をかしげる。
ただ昔を見るだけではなく、
今の自分がその場所へ立ち戻る
ための地図を拾い集めているような感覚だ。

そうしているうちに、週末の習慣がひとつ増えた。
現在の街を、昔と同じアングルで歩いてみる──それだけ。
それだけなのに、見慣れたはずの景色が、
ほんのすこし柔らかく、こちらの胸に入り込んでくる。

最初の出費──約1万円。
たしかに痛かったが、
ちょっとそこまでがやけに贅沢になったこの時代に、
この本は小さな逃げ道を作ってくれた。

思えばこれまでの私は、
胸の奥にストレスをぎゅうぎゅう詰め込んだまま、
蓋を押さえることで一日を終えていた。
娯楽という言葉の意味さえ、どこか見失いかけていた。

けれど、この本と出会ってからは、
時間とお金の使い方を、ほんの少し再発明できた。
古い街の光景に導かれ、
凝り固まっていた呼吸がゆっくり戻ってきたのだ。
*2000年ごろの呉服町*
看板の「ツーカー」が、時代そのものを切り取っている。

携帯電話が急速に普及し、
「パソコンで気が向いたら読む」という緩い通信の空気が
ゆっくりと終わりを迎えつつあった頃だ。

いつの間にか、返事はリアルタイムで届くのが
当たり前になり、
ツーと言われたらカーと返す距離感が、
標準の人間関係になっていた。

便利さは、感情のたたずまいさえ書き換えていく。
その変化に、当時の私は気づかないふりをしていた。
──気づいてしまったら、
もう元へは戻れない気がしたからだ。
*昔の人宿町*
最近は地元メディアで名前をよく聞くようになった人宿町。
だが、私の知っている人宿町は、
すこしばかり寂れていて、
その寂れこそが街の呼吸になっていた。

午後の薄い光が路地にとどまり、
どこか遠い異国の街を歩いているような、
静かな誤解が生まれる場所だった。

いまは再開発の光が強すぎて、
街にあった陰影が少し消えてしまった気がする。
その人工的なきれいさに、どこか居心地の悪さを覚え、
いつの間にか足が遠のいてしまった。

けれどページに残る昔の風景と向き合っていると、
再びあの構図で街を切り取りに行きたくなる。
記憶と現実の重なりを、確かめにいくように。
*約15〜16年前の七間町その1*
七間町の「新オリオン座」や「有楽座」─。

いまは姿を消した映画館の名が、
フィルムの端のように残っている。
古い記憶カードが、かろうじて当時の
空気をつないでくれていた。
*約15〜16年前の七間町その2*
画面の向こうには、
かつての街のざわめきが
そのまま沈んでいる。

時代は戻らないのに、
光景だけがさりげなく戻ってくる。
その瞬間、ほんのわずかに自分の時間も揺れる。
*イタリア軒?*
結局入らないままになってしまった「イタリア軒」─。
チャーシューが絶品だと噂されていたのに、
若かった私は、意味のわからない意地で
ラーメンを避けていた。

30年以上前、この街道を歩いたときは、
週末の夜にすら行列が伸びていた。
その光景の端だけを眺め、私は店に背中を向けた。
あの頃の自分は、自分でもよくわからないほど頑固だった。

少しだけ後悔はある。
けれど、あの「入らなかった夜」も、
昔の静岡に置いてきた私自身の断片なのだろう。
風景と一緒に失われて、そして静かに残っている。

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