法多山、ひとり写心帖──2024年 晩秋の風に
あれから一年。
またひとりで、法多山尊永寺を訪れた。
お守り袋の中身──厄除けの交換。
そんな名目をつくって出かけてきたけれど、
ほんとうはただ、山の空気を吸いたかったのだと思う。
季節の匂いを胸の奥まで入れ直すように。 境内には、和傘がぽつぽつと飾られていた。
傘の柄が風に揺れ、薄い陽光をやわらかく撥ね返している。
レンズ越しにその揺れを追いかける人々。
気づけば自分も、無意識のうちにカメラを構えていた。
──SNS依存症、と呼んでしまえば簡単だけれど。
それもまた、今という時代のひとつの生き方なのだろう。 撮影したなかで「これは」と思えたものは、
プリンタで印刷して手元に残す。
自分だけの証明のように。
けれど、Canonのプリンタはどうにも「文書担当」で、
写真の色味には満足できない。
「写真はEPSONですよ」
そう教えてくれたのは、カメラ売り場の
やや神経質そうな男性だった。
──彼らのほうが、やはり詳しい。 翌日からは「もみじ祭り」らしかったが、
異常気象のせいか、ほとんど紅葉していなかった。 それでも、ファインダーをのぞくたび、
自分のこころだけは静かに紅く、
音もなく高揚していた気がする。 参道を歩き、石段を登る。
息は切れる。 長年のチェーンスモーカーの肺には、
本堂までの距離と勾配はいつも手強い。
今回もまた心臓がばくばくとして、思わず
トイレへと駆け込んだ。
──こういうところばかり、身体は正直だ。
願わくば、法多山のトイレにも、せめて一基くらいはウォシュレットが欲しい。
落ち着くまでに、少し時間がかかった。 境内はとにかく広い。
俯瞰図を眺めると、その雄大さがよく分かる。
日頃の運動不足を痛感するには、十分すぎる場所だ。 そんな広い境内の一角で、今回初めて気づいた
小さな社がある。 その名前は「二葉神社」─。 かつて浜松にあった二葉遊郭と関わりがあるらしい。女性のための神社だという。 足を踏み入れた瞬間、どこか場違いなところに迷い込んだような、
こそばゆい後ろめたさを覚えた。 ふと思い出す。
静岡市の遊郭といえば、実家に残っていた古い書物のなかに、安倍川町や二丁町の記録があった。
十返舎一九とは違った筆致で綴られた、
旅の男たちの喜びの記録。
──うらやましい時代だと思った。
今の静岡は、歓楽街というより「陥落街」─。
バキャクラやコンカフェの店先からは、
「明治と大正ってどっちが古いの?」「出雲大社って、どこにあるんだっけ?」
そんな、無垢とも無関心ともつかない声が聞こえてくる。
スマホに支配された「指タップ世代」の話しぶりは早口で、略語の嵐で、まるで異国語のようだ。
保守的な自分には、どうしたって居場所は見つからない。
ここはどこだ? アタシハダレ?
……そんな徒労感を抱えたまま、
今日も静岡の街を歩いている。
追記。 京都の清水の舞台から飛び降りる度胸はないけれど、
地元・音羽町の「清水の舞台」には行ってきた。
先日買ったカメラを早速フル活用──だったのだが、撮った写真を見返すと、やはり腕が「イマイチ今さん」─。
ネットでカメラ談義を覗くと、写真にうるさい人たちの指摘は重箱の隅どころか、その裏までひっくり返す勢いで、見ているだけで背筋が伸びる。
この文章をネットという「世界丸見え」に放つのも、本当は恥ずかしい。できることなら鍵付きにしたいくらいだ。
発売日だったので、書店でカメラ雑誌も手に取った。
唯一並んでいたのは「CAPA」──。
しかも、もう学研ではなかった。
裏表紙のロゴから、いつのまにか変わっていた出版社。そんな些細なところで、ひっそりと時代の移り変わりを知る。
──時代は進む。
そのなかで、自分はいったいあとどれだけ、「撮りたい風景」と出会えるのだろう。
そんなことを思いながら、晩秋の風に吹かれて山を下りた。
ラベル: お散歩写真機
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