6/27/2024

お勘定という風景


   気づけば、町の個人店にも
QRコードの端末が置かれるようになった。
これまで現金一本でやってきた店が、いつの間にか
キャッシュレスへ踏み出している。

便利さが広がる一方で、使いこなせない身としては
「いつの間に、こんなに変わったのか」
と戸惑う瞬間が増えた。

スマートフォンは、使い慣れた人にはただの日用品でも、
苦手な者には高い壁になる。国がQR決済を推すなら、
まずは端末そのものが無理なく
手に入る仕組みを整えるべきではないか──
そんな理屈めいた思いが、ふとよぎる。

もちろん、全国民にスマホを
無償配布するわけにもいかないのだけれど。

キャッシュレス化には、見えにくい負担もある。
とくに手数料は、個人店ほど重くのしかかる。
よく通う居酒屋の主人は偏屈で冗談ばかりだが、腕はいい。

その店にもQR端末が置かれたとき、理由を尋ねると
「若いお客さんが、現金を下ろしに
コンビニへ行くのが申し訳なくてね」と苦笑した。

世代によって「当たり前」の尺度は違う。
お冷ややおしぼりのセルフ化と同じで、
時代の流れは静かに店の形を変えていく。

そんな折、後輩が私に忠告してくれた。
「便利に慣れすぎると、どこかで足をすくわれますよ。
お店に負担をかけていること、知っておいた方がいいです」
 
物言いは柔らかいのに筋が通っていて、
こういう気遣いにこそ「素養」というものは宿る気がする。

一方で、その負担を個人がかぶる例もある。
タクシー会社の中には、キャッシュレスの手数料を
運転手に負わせているところがあると聞いた。
なんとも気の毒な話だ。

私はタクシーが得意ではなく、
乗るたびに「近くて申し訳ないんですが…」
と前置きしてしまう。

短距離利用への遠慮と、
働く人の現場を思う気持ちが、どうしても混ざる。

酒場で出会った若い女性も、興味深い価値観を持っていた。
美容院やネイルの支払いは、いつも現金なのだという。

「お店に手数料がかかるのが嫌なので」
と淡々と言うのだが、
その言葉には不思議な説得力があった。
支払い方ひとつにも、人の立ち位置や
美意識のようなものがにじむ。

別の夜、知人の働く酒場へ行った。
そこのオーナーは議論好きで、酒の席でも
「はい、論破!」が口癖の人だ。

私は議論が得意ではないので、
「さすがですね」と「さしすせそ」で軽くいなしつつ、
「手数料を客に負担させる店は、
若い人が離れますよ」とだけ伝えた。

すると「じゃあ、あなたの分は手数料ナシにしますよ」
と返ってきたが、それはそれで特別扱いであり、不公平だ。
支払いの場は、互いの価値観が露呈しやすい。

昔、酒場でときどき顔を合わせる女性に
「来ない方がいいのに。お金がもったいないから」
と言われたことがある。拒まれたのではなく、
こちらの財布を気遣った、あたたかい本音だった。
支払いという小さな場面には、
そんな互いの事情が静かに滲む。

ときどき、私は店の人に親切にしてしまう。
しかし、親切には思った以上の覚悟がいる。

誤解されることも、利用されることもある。
あるとき、「お店に来てね」という
誘いを強めに断ったのだが、
後日しつこいメールが届き、ようやく悟った。
――あぁ、私は「都合のいい相手」
として見られていたのだ。

支払いという小さな場面には、人の素が宿る。
キャッシュレスでも現金でも、その選択の裏には、
それぞれの事情、距離感、矜持がある。

お勘定というささやかな風景を眺めながら、
私は今日もまた、財布の紙幣をそっと整えつつ、
時代の流れに少し遅れながら歩いている。

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6/26/2024

高木人形─「ソレはよかった」の夜


   先週末、少し品のある酒場で飲んでいた。
会話の流れから、ふと昔のことを思い出し、
ぽつりと口にしてみたくなった。

地元の雛人形屋の娘と、若気の至りでつくった、
なんともいびつな関係があった。

今にして思えば大した話でもない。
けれど、その夜の私は珍しく素直で、
目の前の女性にそっと話してみた。

すると、不意に彼女が笑って言った。
「せっしゃ、タカギニンギョー!」

勢いづいたように、

「拙者も〜〜タカギィ〜人魚♪」

そして最後に、高らかに、

「ソレはよか〜ったぁ〜♪」

地元の人なら思い出せる、あのCMの節回しだ。
驚いたのは、その再現度の高さである。

彼女は見た目も仕草もいまどきで、
古風な気配などどこにもない。

それなのに、「拙者」の響きだけが妙に粗く、
昭和の時代劇に出てくる野武士の声のようだった。
その落差が可笑しくて、気づけば声を上げていた。

笑ったのは、本当に久しぶりだった。
自分でも驚くほど、すっと声が出た。
ここしばらく、日々はどこか乾いていて、
笑いから遠ざかっていた。
そのなかで落ちてきた軽い愉快さが、妙に胸に残った。

念のため書いておくが、昔のその娘は
「高木人形」の娘ではない。ただの連想にすぎない。

たいした話ではない。
それでも、ひとつ笑えたという小さな記録として
残しておく。

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6/07/2024

くまみねグッズ特選店 モナジアナ


   三月から、渋谷のモディに
「くまみねグッズ特選店 モナジアナ」
がオープンしている。

私はもうしばらく、宿泊を伴うひとり旅をしていない。
最後に泊まりで出かけたのは、昨年十月の甲府だった。
それ以降は、無駄に面積の広い静岡と浜松が、
よく分からない因縁で火花を
散らしているこの土地から、ほとんど出ていない。

家の事情もあり、身軽に動ける状況ではなかった。
そんなある日、不意に電話が鳴った。

相手は気の置けない友人で、電話嫌いの私でも、
身構えずに出られる数少ない相手だった。

鼻歌まじりで出てみると、
「今、渋谷にいる」と言う。
正直に言えば、東京、とくに渋谷は苦手だ。
人も情報も多すぎて、身体の置き場が分からなくなる。

だが友人は、そういうことをまったく気にしない。
ひとりで東京を歩ける人間は、
それだけで立派なおひとりさま上級者だと思う。

友人はモディにいて、くまみねグッズ
特選店に立ち寄ったらしい。
ムジーナのハンドタオルや、腕組みできるムジーナ、
フード付きのブランケット。
私の好みを把握したうえでのお土産だという。

くまみねさんの人気は、電話猫、現場猫、
仕事猫と続いて、もはや説明が要らないほどだ。
私自身も、あの少し疲れたような、
アンニュイな画風にすっかりやられている。

今使っている寝具――枕、マットレスカバー、
敷布団カバーは、すべて仕事猫だ。

ようやく、好きなものに囲まれて
眠りたいと思えるようになった。

なぜ今さら、そんなことを思ったのかは分からない。
ただ、ぐっすり眠りたかったのと、
誰にも邪魔されない場所が欲しかったのだと思う。

精神的な安定剤を、いまだに手放せない身ではある。
その前のベッドは、とても人に
見せられるものではなかった。
掃除もせず、無気力な生活が続いていた。

以前住んでいた部屋は、設備だけは立派で、
来客も多かった。
今思えば、人は部屋の空気に正直だ。
引っ越してから、誰も来なくなった。
それでいい、と今は思っている。

ひとりには、すっかり慣れた。
今年の二月を過ぎた頃から、急に部屋を片づけたくなった。
連絡先だけでなく、部屋に残っていた
過去そのものを消したかったのかもしれない。

まずはベッドルームから手を付けた。
汗染みのある寝具を処分し、くまみねグッズで揃え直した。
すると、不思議と身体が動き出した。
キッチンも、リビングも、トイレも、浴室も。
十時間以上、ほとんど休まずに掃除をした。

その日、部屋から一歩も出ていないのに、
歩数計は一万八千歩を示していた。

六畳三間の2DKが、驚くほど広くなった。
空気が変わった、と感じた。
だから今日の渋谷からの電話も、
少しだけ運気が動いた証拠のように思えた。

友人は、私が一番ひどい時期にも離れなかった人だ。
残る人と、去る人。
それが分かっただけでも、
無駄な時間ではなかったと思っている。

ムジーナのブランケットは、
車の助手席に掛けてみようかと思う。
夜の運転が、少しだけ楽しくなりそうだから。

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6/03/2024

山岡家について


   淡々と担々麺、ではない。
淡々と、山岡家のラーメン。

今週のクーポンは、海苔五枚。
醤油ネギラーメン。
白髪ネギを足す。
硬め、濃いめ、脂は普通。

厚くて平たいチャーシューは、どうも選ばない。
ころころした肉が残る、ネギラーメンのほうがいい。

以前は味噌ばかり食べていた。
最近は、気がつくと醤油に戻っている。

今日は普通盛。
丼が少し小さい。
それだけで、落ち着く。

胡椒とニンニクは、ネギの上。
スープには入れない。
白髪ネギのごま油の匂いが、残る。
それで、しばらく他の店に行かなくなる。

海苔は浸して、巻く。
それ以上は、書かない。

山岡家は、家から少し遠い。
その距離が、ちょうどいい。

焼津店の、端のカウンター。
話さなくていい席。

塩分も脂も、今日は数えない。
空腹が収まって、
帰り道のハンドルが軽い。
それで、いい。

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グソクムズ「ガーリーボーイ」


   今日は、久しぶりにここをメモ帳代わりにしている。
特別に言いたいことがあるわけではない。

ただ、あれから、空腹になると少し妙な
感覚を覚えるようになった。
下腹部の奥を、内側からきゅっと掴まれるような感じ。
あるいは一瞬、呼吸が止まるような感覚。
書きようによっては不快に聞こえるが、実際には
そうでもない。
むしろ、感覚が研ぎ澄まされるようなところがある。

部屋の音環境を変えたせいかもしれない。
低音がよく出るように整えた結果、
気づけば、スピーカーは九台になっていた。
音が、床や壁を伝うというより、
身体の中心を直接叩いてくる。

その状態で、radikoを流していた。
私が昔から好んでいる、少し古風な媒体だ。
偶然か、運がよかったのか、
そこで一曲、強く引っかかるものに出会った。
グソクムズの「ガーリーボーイ」─。
昭和のフォークソングを思わせる、
切なくて、どこか懐かしい曲だった。
一度聴いただけで、これは忘れたくないと思った。
だから、こうして記している。

この曲を九台のスピーカーで同時に鳴らすと、
自室が小さなライブハウスのようになる。
音量の問題ではなく、音の密度の話だ。
身体の内側が、静かに満たされていく。

耳から入る感覚は、思っている以上に人に作用する。
気分が少し持ち上がり、
夜の時間が、過剰に重たくならずに済む。

最近は、そういう瞬間があれば十分だと思うようになった。
何かを劇的に変えなくてもいい。
ただ、無事に一日を終えられれば、それでいい。

今は、グソクムズの「ガーリーボーイ」を流しながら、
腹に響く低音を確かめている。
それだけで、今日は十分だ。

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