4/27/2024

リポストにもほどがある


   小さな画面の中に、あらゆる情報が
詰め込まれるようになった。

指先ひとつで世界とつながれる、
という触れ込みだったが、
実際には他人の言葉が延々と
転送されてくるだけの日々でもある。

広告と転載の合間を縫って、自分の考えが
入り込む余地は、ほとんど残っていない。

それでも画面をスクロールしてしまうのは、
そこに何かが起こるかもしれないという、
根拠のない期待のせいだろう。

気がつけば、自分もまた「まとめる側」に回っている。
主張をするでもなく、正しさを競うでもない。
ただ、そこに居合わせた記録を拾っているだけだ。

春が苦手だった。
始まりと終わりが同時に訪れる、落ち着かない季節。

だが今は違う。
変化を求められなくなった年齢になって、
ようやく春をそのまま受け取れるようになった。
年齢とは、期待されない自由なのかもしれない。

生活は効率化され、待たされる時間は次々と削られていく。
数十秒の広告を避けるために、人は驚くほどの知恵を使う。
だが、便利さは生活の密度を薄くもする。

何も起きない時間が、いつの間にか
耐えがたいものになっていた。

かつての映像には、演じるという行為の重みがあった。
所作に間があり、沈黙に意味があった。
今は軽やかで、分かりやすい。それが悪いわけではない。
ただ、失われた手応えを思い出すことがある。

携帯を持たない人と、ゆっくり話してみたいと思うことがある。
既読も通知も気にせずに、言葉が届くまで待つ会話。
それはもう、贅沢と呼ばれる種類の時間なのだろう。

誰にも気づかれないが、個人的に達成したことがある。
長く眺めるだけだった場所に、ようやく足を踏み入れた。
人生は、そういう小さな区切りで、かろうじて続いていく。
技術は進み、写ってはいけないものは消せるようになった。

風景は整い、世界は静かになる。
だが、他人を消す仕組みは、いずれ自分にも向けられる。
そのことを、少しだけ怖いと感じている。

久しぶりに、以前よく通っていた店に入れた。
特別な出来事ではない。それでも、「また来られた」
という感覚が、思いのほか深く残った。

モバイルの時代に、人はずっと話し続けている。
だが、誰と話しているのかは、次第に曖昧になる。

画面の向こうにいるのは、
他人なのか、それとも自分自身なのか。
いずれ、今の場所も消えるだろう。
だがたぶん、別のどこかでまた、
同じように書き続けている。
文字数の都合で、住処を移しながら。

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