1/21/2024

パリは遠く、仕立て屋は近くに──未発売フランス映画のこと


   私は、動画よりも写真を、漫画よりも活字を好む。
想像の余地が残るほうが、落ち着くからだと思う。

足りない部分を補いながら受け取る。
そのひと手間が、心地いい。

ネットを使い始めたのは、まだ回線が遅く、
写真一枚の表示にも時間がかかっていた頃だ。

自然と、軽いテキストばかりを読んでいた。
画像を見るなら、雑誌のほうが早かった。

やがて定額制になり、
画像も動画も一瞬で開くようになった。
文章を、腰を据えて読める環境が
ようやく整ったのは、その頃からだった。

今では、スマートフォンひとつで
何でも観られる。

私も動画を観ることはある。
ただ、いわゆるYouTuberの配信には、
あまり惹かれない。

代わりに好むのは、紀行や歴史番組、
50〜60年代の音楽や映画の予告編だ。

さて、ここからが本題になる。

1992年公開のフランス映画
『仕立て屋の恋』─。
孤独な仕立て屋の男が、
向かいの部屋に住む若い女性を
毎日決まった時間に覗き見る。

明るい話ではない。
だが、犯罪の一歩手前を
どう描いているのかが気になった。

観終えたあと、妙な感動が残った。

軽い気持ちで何人かに勧めたが、
反応は芳しくなかった。

主人公の印象が、
そのまま私の人格に重ねられたのだ。

ある女性とは、それがきっかけで疎遠になった。
今思えば、当時の周囲は
明快なハッピーエンドを好む人が多かったのだろう。

陰影のあるフランス映画は、
受け入れられにくい環境だった。
たまたま、そういう場所にいたのだと思う。

もう一本だけ、触れておきたい。

1967年の作品「パリのめぐり逢い」─。

この映画は、いまだ観ることができていない。
日本では、正式に発売も配信もされていない。

調べていくと、戦争に関わる描写が
問題視されているらしいことが分かった。

YouTubeで該当部分は観られる。
だが、それが配信を妨げるほどのものかどうか、
判断は難しい。

ネットがテレビに近づき、
企業が慎重になるのも理解はできる。

それでも、
知りたいと願う人間に対しては、
そろそろ解禁されてもいいのではないかと思う。

この映画に興味を持った理由は、ただひとつ。

主題曲のメロディが、あまりにも美しかったからだ。

60年代のフランスが、不倫を含んだ大人の関係を
どう描いていたのか。その空気に、触れてみたい。

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1/17/2024

C言語によるサーボモーター制御

 9年前の冬、パソコンを相手に
遊んでいた記録が残っている。

当時は今よりずっと、理屈っぽい日々だった気がする。
その頃のメモを引っ張り出してみると——

  「自走ロボット解体まで、あと2日」

  19日、ようやくサーボモーターの
  組み込みが完了。

  動きはどこか、カマキリに似ている。
  間接的で、俊敏で、そして少し気味が悪い。

  けれど、その「気持ち悪さ」の裏側には、
  C言語という、
  古くて素朴なプログラミングの命令に、
  一分の狂いもなく従おうとする、律儀さがある。

  指示された通りに、ぴたりと動く。
  頑固なまでに、正確に。

  この国が、
  どんどん無責任さで包まれていく中で、
  そんな真面目な存在は、
  かえっていとおしい。

補足までに。
サーボモーターの
「サーボ(servo)」とは、
元をたどれば「奴隷」を意味する言葉だという。
命令に逆らわず、ただ動く。
——それだけの存在。
さて、もう寝よう。

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1/12/2024

泡だけが会話していた夜

 昨晩、知り合いの若い子と飲みに出た。
「ホッピーって何?」と訊かれて、
ああ、これは説明コースだなと観念した。

こっちは昔からのホッピー派である。
理由は単純で、ビールより安いからだ。

ただ、最近の若い層には
「プリン体ゼロ」とか「糖質控えめ」なんて
健康っぽい宣伝のほうが耳に入りやすいらしい。

そこで、ホッピーのナカ──焼酎25%。
私はいつものキンミヤ──をグラスに注いで、
あえて仕上げの工程を彼女に任せてみた。

「初めてやる」と言いながら、案外楽しそうだった。

瓶を軽く振って、泡を立てる。
居酒屋のカウンターで、
こちらが長年ひとりでやってきた動作を、
少しだけ分けてみせただけだ。

ロマンでも何でもない。
ただ、この場所にそぐわない清潔な女性が、
ホッピーを注いでいる──
その場違いさが、どこか可笑しかっただけだ。

世代も価値観も、生活のリズムも、
私とはまるで違う。
脂と煙と昭和の残り香が漂う大衆酒場に、
彼女が馴染むとは思っていない。

それでも、ちょっとした経験談にはなるだろうし、
こういう似合わなさを軽く成立させるのも、
長く酒場に通った人間の、
ささやかな芸のひとつなのだと思う。

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1/07/2024

モノを大事にするということ――直す時間と、書く時間


   最近、壊れたらすぐに買い替える、という判断が
あまりにも自然になっている気がする。
「直す」という発想そのものが、
最初から選択肢に入っていない。

実家の環境も、いつの間にか
WindowsからiMacへと切り替わっていた。
使いやすさ、安心感、連携の良さ。
理由はきっと、間違っていない。
ただ、機械に長く触れてきた身としては、
少しだけ、もったいなさが残る。

新しいものが悪いのではない。
直しながら使う時間が、
ごっそり省略されてしまった感じがするのだ。

機械は、使えば摩耗する。
がたつきも出るし、調子も狂う。
それは人間と同じで、避けられない。
だからこそ、給油や清掃、
小さな調整が意味を持つ。

仕事では、止めてはいけない機械を相手にしてきた。
決められた手順を守り、
決められた時間に手を入れる。
それだけで、寿命は驚くほど延びる。

家庭用の機械も、本来は同じだ。

年明け、プリンタの調子が悪いという話を聞いた。
黒だけ印字されないから買い替える、という。
少し待て、と言いたくなる。
まだ、できることはある。

今は便利な時代だ。
分解の仕方も、調整の方法も、
探せばいくらでも出てくる。
インターネットは、
捨てる理由を集める場所にもなるが、
直す知恵を拾う場所にもなる。
どう使うか、なのだ。

年賀状のことを考えると、
この話はもう少しはっきりする。

インクジェットで整った文字が並ぶ年賀状は、
確かに効率がいい。
だが、そこに手で書かれた一行があると、
紙の手触りが変わる。

字がきれいかどうかは関係ない。
むしろ、不揃いな文字の方が、
書いた時間を想像できる。

一年に一度くらい、ペンを持ち、
短い文章を書き、ポストまで歩く。
それだけの手間が、不思議と心を静かにする。

機械も、人のやり取りも、早く、軽く、
使い捨てる方向へ進んでいる。

それは合理的だが、直しながら使う余白まで
手放す必要はない。

壊れたらすぐ買い替える前に、書かなくなる前に、
一度、手を動かしてみる。

モノを大事にするというのは、節約の話ではなく、
時間を引き受けるかどうか、その姿勢の問題なのだと思う。

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1/05/2024

紙の新聞を、久しぶりに


   久しぶりに、紙の新聞を読んだ。
読むつもりで読んだというより、
そこにあったから、なんとなく広げただけだ。

一面から社会面へ、
途中で広告に目が止まり、
気づくと、さっきまで興味のなかった記事を
最後まで読んでいた。

ネットでは、こうはいかない。
読みたいものだけが、こちらの関心に合わせて並ぶ。
便利だが、少し息苦しい。

新聞は不親切だ。
関心の有無などお構いなしに、
世界を一枚の紙に押し込んでくる。
逃げ場がない。
だからいいのかもしれない。

政治の隣に、事件があり、文化があり、
どうでもよさそうな広告がある。
それらが同列に置かれている。
世界は本来、そんなふうに雑然としていたはずだ。

ネット広告は、こちらの過去を覚えすぎている。
新聞の広告は、こちらのことを何も知らない。
その無関心さに、少し安心する。

新聞が正しい、ネットが間違っている、
そういう話ではない。

ただ、自分の関心だけで
世界を切り取っていると、
知らないうちに視野も、気分も、狭くなっていく。

紙の新聞には、それを少しだけ強引に戻す力がある。

読み終えて、紙を畳む。
指先に、わずかなインクの匂いが残る。
それだけで、今日は少し、
ちゃんと世の中に触れた気がした。

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