11/21/2023

涙くん、またね。—Goodbye Mr. Tears 再考


   このところ、ずいぶん息苦しい世の中だな、
と苦笑いしながら日々をやり過ごしている。
気がつけば、人生の終い方なんて言葉が、
ふと頭の端をかすめる歳にもなった。

図々しく生き延びてきたせいか、
世の中の癖のようなものが妙によく見える。
人の顔つきひとつで、その日の機嫌や
性格の襞が、なんとなく分かってしまう。
ありがたくもない感覚だけが、静かに研ぎ澄まされていく。

若く、どこか光をまとった女たちが、
ときどきふっと冷たい表情を見せるのは、
きっと今を全速力で生きている証しなのだろう。
その眩しさの裏で、こちらの歳の重みが、かすかに軋む。

ただ、選挙の候補者写真だけは、どうにも馴染めない。
最新のアプリで磨かれた顔ほど、
その奥にある計算が妙に透けてしまう。

誰に一票を託すか迷っているうちに、
日曜は気づけば少しくたびれている。
これもまた、現代の通過儀礼らしい。

そんな折に思い出すのが、坂本九さんだ。
会ったこともないのに、

「この人はきっといい人だった」と、なぜか疑えない。
声に宿る清らかさとは、こういうものなのかもしれない。

けれど今日、耳にした「涙くんさよなら」は、
九さんではなく、ジョニー・ティロットソンの歌声だった。
抑制のきいた、肩の力を抜いた歌い方。
初めてこの曲を好きになったときの感覚が、
そっと戻ってくる。
ひとりハモりの妙技も、歳月を経たいま聴くと、
なおさら胸に沁みる。
今のカラオケには九さんのヴァージョンしか
残っていないけれど、当時のヒットが
ジョニーだったという話にも、不思議と納得がいく。

涙くんは、別れを告げて去っていく存在ではない。
忘れたころに、ひょいと戻ってきて、
肩先にそっと触れてくるようなものだ。
そんな夜が、たまに訪れてくれれば、それで十分だと思う。

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11/20/2023

固定された視線、揺れる風景――Canon PowerShot V10についての覚え書き


   そのカメラは、手に取る前から決まっていた。
Canon PowerShot V10。
発売前の画像だけで、予約を済ませていた。
小さく、丸く、どこか玩具のような佇まい。

GoProの無骨さには馴染めず、
動画撮影にも、さほど興味はなかった。

それでもこのカメラだけは、
なぜか手元に置いておきたかった。

動画に特化した仕様を眺めながら、ふと考えた。
ダッシュボードに固定して、ドライブの記録を残す。
それだけのことだった。

YouTubeを覗いてみても、レビューは自撮りばかりだった。
PowerShot V10を車載カメラとして使う発想は、
検索結果のどこにも見当たらない。
だから、自分で探すしかなかった。
 
この小さなカメラを、走行中でも落ちることなく、
確実に固定する方法を。
 
寸法を紙に書き出し、ダッシュボードに当ててみる。
角度と視野、吸盤の形状。
すべては、まだ見ぬ現物に向けた予習だった。
 
そして、ようやく見つけた。
ポンプ圧着機構付きの吸盤マウント。
 
空気を抜くことで、エンボス加工のある
ダッシュボードにも、
しっかりと食いつく。

赤い棒を押し込むと、
まるで地面に根を張ったように動かない。
 
V10は軽い。それでも、振動や
カーブの遠心力に耐えるには、
この確かさが必要だった。
 
試しに、オリンパスペンも載せてみた。
びくともしない。それだけで、少し気が楽になる。
 
動画は、水平を保つのが難しい。
けれど、残したいのは正しい構図だけではない。
 
その日の気分。車内の空気。
右に傾いた日も、左に流れた日も、

すべてが「その日の記録」だ。

街では、撮らない。
車という殻の中から、ただ風景を見つめる。
誰も語らなかった使い方。
誰も教えてくれなかった固定方法。
 
それを、ようやく自分で見つけた。
そして、静かに記録する。
誰に見せるでもなく、自分だけのドライブを、
Canonの小さなレンズに預けて。

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11/16/2023

退屈という贅沢──「Once I Loved」をめぐる午後の空想


   人は平和を欲する。
それは、住職の法話に滲む仏教的な視座からも、
街角の会話からも、たぶん多数派の願望だろう。

けれど、平和とは、時に退屈の別名でもある。
静けさの中で、何かが欠けているような感覚。
それを贅沢と呼ぶか、空虚と呼ぶかは、
聴く音楽によって変わる。

今日の音楽は、アントニオ・カルロス・ジョビンの
ボサノヴァ。
英語で歌うのは、アストラッド・ジルベルト。
「Once I Loved」─。
この曲は、退屈の対義語ではない。
むしろ、退屈の奥に沈んでいる、
まだ言葉にならない感情を、そっと揺らす。

何かを決めきれない午後や、
気持ちの行き先が定まらない瞬間、
ふと、この曲が浮かぶことがある。

歌詞は、あってもいいし、なくてもいい。
英語のまま、意味を追わずに。ただ音だけを受け取る。

日曜の午後、気だるい空気の中で、
ひとり、静かな場所に身を置きながら。

煙草も酒も、いらない。耳を澄ませるだけでいい。
それは、何かを鍛えるためではなく、
手放しかけていた静けさを、そっと思い出すための、
小さな儀式なのかもしれない。

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11/11/2023

NEC_LAVIE— Windows11 の午後


   知人が言い出した。

「遠隔で侵入された気がする」

八月に買ったばかりのノートパソコンだった。
もう使いたくない、捨てたいと言うのを、
もったいないと押しとどめて、譲り受けた。

三時間ほどネットに繋ぎっぱなしで様子を見たが、
マウスが勝手に動くわけでもなく、異常はない。
そもそも知人はSNSをやらない。むしろ嫌悪していて、
個人情報が外に流出する心配もほとんどない。

ただ、ネットは世界と繋がっている以上、
「絶対」はない。
念のため、最初から整えることにした。

NECのLAVIEには、年賀状作成や家計簿、
試用版セキュリティなど、不要なソフトが
ぎっしり詰め込まれている。簡単には削除できず、
ただ容量を食い、動作を鈍らせるだけ。

ならば、まずはクリーンインストールだ。
MicrosoftからWindows 11のISOを落とし、
DVDに焼く——USBのほうが速いが、
失敗するかもしれない光学ディスクの緊張感を、
あえて味わいたかった。

一枚失敗、二枚目で成功。
BIOSをDVDブートに切り替えて、
セットアップ画面まで辿り着く。

ついでにローカルアカウントで通すために、
途中でコマンドプロンプトを起動する裏技を使った。
Microsoftアカウントを
強制される感じが、どうも好きになれない。

CPUはCore i5、メモリ16GB、SSD 256GB。
ゲームはしないので、これで十分だ。

しかし問題は、Windowsの「中身」ではなく、
LAVIEという「外側」のほうにあった。

ノートパソコンの命であるバッテリーの
充電上限を80%に抑えるユーティリティ——
こればかりは素のWindowsには存在しない。
NEC独自の再セットアップメディアから
入れ直す以外、入手できない。

自分は普段、ノートPCを持ち歩かない。
ほとんどはAC電源運用だ。
だからこそ、バッテリーを長持ちさせる機能は必要だった。

そのために、もう一度NEC独自の環境を戻し、
使わないアプリだけ削除した。
Edgeの「組織によって管理されています」を消すために、
レジストリをいじったりもしたが、
結局のところ「乗っ取られてはいなかった」
という結論に落ち着いた。

いまは、ネットに繋がないローカルアカウントで、
静かに使っている。
思わぬ贈り物としての、真新しいLAVIEを。

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11/08/2023

ガソリンの値札と、あの頃の胃痛について

 このウェブログに、十年前の僕がまだ生きている。
「趣味:バレー──バレーとバレエの12時間」─。
タイトルだけは陽気で、
しかし文章のどこかに湿った金属の匂いが漂っている。

読み返してまず戸惑ったのは、ガソリンの値段だ。
今朝、スタンドの電光掲示を見て思わず眉をひそめたけれど── 2013年の値札も、たいして変わらなかった。
十年分の驚きを返してほしいくらいだ。

2013年の僕は、会社にほとんど座っていなかった。
外回りばかりで、給油のたびに現金を
社長の席まで取りに行く。
直線距離にすれば数歩なのに、
あの道のりにだけ湿った風が吹いていた。

社長は常に不機嫌で、言葉の棘を惜しみなく飛ばしてきた。

「ガソリンばっか撒き散らして」

そう言われるたびに、僕の胃は静かに薄く削られていった。 売上は下り坂、事務所の空気は曇天のまま固定されていた。

それでも、僕は辞めなかった。
理由は今でもはっきりしない。
惰性だったのか、恐れだったのか、
あるいは「外回りしていれば怒鳴られずに済む」
という ささやかな逃亡の成り立ちだったのかもしれない。

今も、ガソリンの地域差が妙に気になるのは、
その後遺症だろう。 静岡市は西部より少し高くて、
富士はさらにもう一段高い。
地図アプリを眺めながら、
必要もないのに価格を比較してしまう。
あの頃の癖だけが、いまだに体内のどこかで
生き残っている。

久しぶりに当時のブログ本文を読み返すと、
なぜか能天気な調子で締められていた。
よくそんな調子で書けたものだ、と我ながら不思議になる。
たぶん、書きながら強がっていたのだろう。
あの頃の自分は、強がり方だけは妙に上手かった。

十年前の僕が、今日の値札を見たら何と言うだろう。
たぶん「高いな」と笑って見せるはずだ。
その裏で、胃の奥がまたひとつきゅっと痛むのだろう。

そして今の僕は──
一体どんな燃料を、どこに流し続けているのだろう。
そう思った途端、十年分の距離がふいに近く感じられた。

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烏龍茶でシャンプーして頭皮の皮脂を撲滅したい


   今日の自己顕示欲は、ふとした瞬間に、
グレッチのギターを颯爽と操る自分──
そんな幻を見てしまったところから始まった。
きっかけは、チェット・アトキンスの演奏動画だ。
ただそのリンクを貼るだけの記事のはずだったのに、
数分の演奏を聴いただけで、
完全に心を持っていかれてしまった。

なんという音。
アームを触れる指先のわずかな軌道にまで、
生まれついた感覚が宿っている。
これぞソロギターの到達点、とでも言うべきものだ。

けれど、僕は知っている。
何年ギターを握り続けていようと、
かつてギター部に在籍していようと、
越えられない壁があることを。

今の僕が、本気で烏龍茶でシャンプーして
頭皮の皮脂を撲滅しようとするくらいには、
努力と結果が、必ずしも結びつかない領域がある。

もし誰かが幸運にもグレッチを譲ってくれたとしても、
たぶん僕は、それを飾って眺めるだけだろう。
やがて手放され、別の誰かのもとへ行く。
その頃、僕はきっと手狭で静かな部屋に入り、
高温の炎に還り、骨になる。
それで、すべてがふっと軽くなる。

──そんなふうに考えてしまう時点で、
もう演奏よりも物思いの方に熱を入れてしまっているのだ。

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11/04/2023

マドモアゼルな僕


   恋愛という言葉に、どこか胡散臭さを
覚えるようになったのは、いつ頃のことだったろう。
それでも昔の僕は、信じることで
どうにか自分を保っていた気がする。

昭和の終わり、少女漫画誌の片隅に
ラピスラズリの広告があった。
「これを身につければ、素敵な恋人ができる」─。
そんな一文に、高校生だった僕は
あっさり釣られてしまった。

同じ頃の男性誌には、切手だけで届く
「透視メガネ」なんて、さらに怪しい品も載っていた。
今思えば笑ってしまうけれど、あの時代の広告には、
現実と妄想の間をゆるく曖昧にするような力があった。
その空気に押されるようにして、僕は星形の
ラピスラズリを注文した。

十数年前、その話を勢いのまま文章に書いたことがある。
久しぶりに読み返すと、少しこそばゆくて、
それでもやっぱりどこか愛おしい。

文化祭の奇跡をラピスに託していた高校生の自分。
変わらず濃いブルーの石とは裏腹に、
季節の方だけが静かに過ぎていった。

今思えば、変わったのはラピスよりも、
僕の方だったのだろう。
もうあの頃みたいに、無邪気に「恋の予兆」なんて
信じられないけれど。

それでも、ときどき昔の文章を引き出しから
取り出して読むと、
ブルーの石みたいなひんやりした懐かしさが、
胸のどこかに残る。
マドモアゼルな感性のまま、
少しだけ大人になりきれなかった頃の僕として。

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