ケチ飯ロード──都市の構造材としての吝嗇
しばらく更新を怠っていた。
理由はない。移動ばかりしていて、
書こうと思えば書けることはいくらでもあった。
けれど今日は、どうにも気持ちの輪郭が定まらない。
だから、ただ記録だけを残しておく。
都市の片隅で拾った、ケチ飯の覚え書きとして。ガスト。
ロードサイドに無言で佇む、日常の骨組みのような店だ。
骨組みは普段意識されないが、それなしに
街は立ち上がらない。
今朝届いたチラシには半額クーポンが載っていた。
文字は派手だが、胸が高鳴ることはない。
冷静に眺めれば、マルゲリータピザだけが
一皿としての面目を辛うじて保っていた。
蒸し鶏とキノコのサラダも、ほんのわずかに
安くなっている。
同じ内容のクーポンはスマホのアプリにもある。
紙のチラシの特別感は、街の雑音の中ですぐに溶けてゆく。
結局、この二つだけが今回のケチ飯ロードの収穫だった。どこかのテレビ番組が追いかける旅する
絶滅危惧メシとは違う。
こちらは、都市の構造材としての吝嗇を
ただ静かに記録する、ひっそりした道のりだ。
吝嗇は貧しさではなく、
生活を支えるための小さな選択の積み重ねである。
ひとつ、小さな話を。
ドリンクバーは税込百五十円。
ただ、ある問いに正しく答えれば税込百円になる。
昭和四十年を西暦で言うと 一九六五年。
その数字をタッチパネルに入力するだけで、
ひとときの飲み物が、さらに五十円安く手に入る。
誰にとっても取るに足らない、
忘れればそのまま消えてしまう数字だ。
けれど、こうした小さな数字の差が積もる場所で、
人はなんとか生活を形づくっていく。
都市に生きるということは、
そうした微細な抵抗の上に立ち続けること
なのかもしれない。
今日のケチ飯ロードは、静かな灯のようだった。
誰に見えなくても、消えずに燃えているものがある。
ラベル: 食通風気取り



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