10/16/2023

純喫茶 谷村新司


   外回りの車内で、
AMラジオはつけっぱなしになっていた。
FMは入らない車ではあったが、
音楽を選ぶ気力はなく、
かといって沈黙も長すぎる。
トーク番組が、ちょうどよかった。

「純喫茶 谷村新司」は、
その中に、いつもあった。
音量を上げるほどでもなく、
切る理由もないまま。

 二〇〇五年、社用車の中。
 二〇一三年、終わりまで。

移動と待機のあいだに、
あの声は、途切れずに置かれていた。

谷村さんの語りには、
知識の厚みがあり、距離があり、
ときおり艶めいた話題も混じったが、
それがこちらに踏み込んでくることはなかった。

押しつけない声だった。
奮い立たせもしない。
だが、聞いているあいだ、
何かを削られずに済んだ。

永六輔さんの
「誰かとどこかで」の、
少し鋭く、少し考えさせるやり取りも、
同じ棚に並んでいた。

答えは、いつも曖昧だった。
それでも、
すぐに結論を出さなくていい時間が、
そこにはあった。

外回りの時間は、
選べない仕事を引き受けている感覚と、
常に背後にある圧とが、
同じ車内に同乗していた。

エンジンを切っても、
頭の中はまだ走っている。

次に向かう場所よりも先に、
戻れなくなる予感だけが残る。
そんなとき、
ラジオの中の誰もが、
正解も覚悟も語らず、
それでも、足場のような沈黙を残した。

番組を聴いているあいだだけ、
解雇だとか、行き先だとか、
そういう言葉が、
少し遠くに下がった。

今はもう、
それらの声を新しく聴くことはできない。
けれど、信号待ちの静けさや、
古いスピーカーの奥で、
ふと、あの語りが戻ってくる。
更新されない声。
それでも、
働く時間をやり過ごすための記憶としては、
いまも十分に現役だと思っている。

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テルスターと顎関節症の夜に ──まだ宇宙旅行はできそうにないね


   昨日に続いて、エレキギターの話をする。
ボーカルのない音楽が好きだ。
とくに、エレキのインストゥルメンタル。
歌詞がない分、聴き手の側で勝手に物語が始まる。
それは、誰にも邪魔されない、静かな妄想だ。

英国のトルネイドーズを知ったのは、
ベンチャーズ経由だった。
ベンチャーズは、シャドウズの《アパッチ》も、
シャンティーズの《パイプライン》もカヴァーしている。
どれも見事な演奏で、文句のつけようがない。

ただ、《テルスター》だけは違った。
本家の音は、明らかに遠くまで飛んでいた。

YouTubeで初めて聴いたとき、理屈抜きに、
これはすごいと思った。
あの音は、たしかに宇宙を志向していた。
──それにしても、
六〇年代のスペースロックから、もう六〇年が経つ。

それでも、宇宙旅行はまだ日常にならない。
この国では、空よりも地面のほうが、ずっと現実的らしい。

顎が痛む。
右の首、右の肩も重たい。口を大きく開けることすら、
少し億劫だ。
身体のどこかがうまく動かないだけで、

宇宙は、ずいぶん遠くなる。食事は、自然と慎重になる。
音楽のようには、身体は思い通りにならない。

追記として、
シャンティーズの《パイプライン》も挙げておく。
ベンチャーズの鋭さとは違い、
オルガンの響きが、夜の街によく馴染む。
少し湿った、都市の音だ。

宇宙には、まだ行けそうにない。
今夜はせいぜい、音の中で、その距離を測るだけでいい。

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10/15/2023

If I Needed Someone(恋をするなら)──美しすぎるコード進行

 YouTubeの画面に、1966年の武道館が映っている。
もちろん、音源は当日のものではない。
ジョージ・ハリスンが観客に手を振る姿もない。
ただ、映像のざらつきだけが鮮烈だった。

「恋をするなら」が流れ出す。
彼は赤いリッケンバッカーの12弦を抱えていた。
いつものカジノではなく、この曲のためだけに
選ばれた楽器。

和音が鳴った瞬間、会場の空気が細かく震える。
乾いたきらめきが広がり、アルペジオは

わずかに変則的な切れ目を持ちながら進んでいく。

コード進行は単純だ。けれど、異様なほど美しい。
退色した時代の色が、むしろフィルターのように
洒落て見えた。

──かつて、その音を真似していた男がいる。
フェンダージャパンのストラトを握り、
カポタストも知らぬまま、
延々とセーハで押さえ込んでいた。
後半には指が疲れ、弦はミュートされ、
12弦の響きには届かず、アンプをいじる手だけが
空しく動いた。

その不器用な記憶のせいで、
いま画面の中のリッケンバッカーは、
やけに遠く、そしてひどく眩しい。

2023年10月15日。
日曜の午後、アフタヌーンティーの横で流れていた
小さな映像。
それだけで十分だった。

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10/12/2023

顔色はよいか、の距離感について


   朝礼の列に並ぶ。
ヘルメットの重みが、
まだ眠っている頭蓋の奥へ、ゆっくり沈んでいく。

「顔色はよいか!」「ヨシッ!」

その指差呼称は、現場の儀式であり、
日々の安全をつなぎ止める、短い呪文のようでもある。

周囲は迷いなく声を張りあげる。
それが、この場所の「正しいリズム」なのだろう。
けれど、胸のどこかに、薄いざらつきがこびりついている。

隣に立つ若い女性作業員。
冷えた朝の光のせいで、目のまわりがわずかに赤い。
ヘルメットの下で、髪が小さく揺れている。

「顔色」を確かめるために、
こちらは彼女の目を見るしかない。

それが安全確認であるとわかっていても、
視線を置く場所が定まらない。
見つめることが義務であるはずなのに、
その瞬間だけ、境界線に触れてしまうような
居心地の悪さが残る。

「ヨシッ!」と声を上げるたび、
胸の奥で、薄い金属片が震えるような音がする。
誰にも聞こえない、微かなゆらぎ。

列はいつも通りで、ためらいの気配もない。
同じ動作、同じ声の高さ。
その中で、自分だけが、

どうにも現場のテンポに乗り切れていない気がする。

安全確認としての「目を見る」という行為が、
誰かにとってはただの習慣で、
誰かにとっては小さな負荷になる。
しかし、それを言葉にする人はいない。

今日も「顔色はよいか!」と声が飛ぶ。
列は揺らがず、冷えた空気だけがゆっくり流れる。

その声が胸の底に落ちるたび、
石がひとつ沈むような鈍い痛みが、静かに波紋を描く。

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10/11/2023

ケチ飯ロード──都市の構造材としての吝嗇


   しばらく更新を怠っていた。
理由はない。移動ばかりしていて、

書こうと思えば書けることはいくらでもあった。
けれど今日は、どうにも気持ちの輪郭が定まらない。

だから、ただ記録だけを残しておく。
都市の片隅で拾った、ケチ飯の覚え書きとして。
ガスト。
ロードサイドに無言で佇む、日常の骨組みのような店だ。
骨組みは普段意識されないが、それなしに
街は立ち上がらない。

今朝届いたチラシには半額クーポンが載っていた。
文字は派手だが、胸が高鳴ることはない。
冷静に眺めれば、マルゲリータピザだけが

一皿としての面目を辛うじて保っていた。
蒸し鶏とキノコのサラダも、ほんのわずかに
安くなっている。

同じ内容のクーポンはスマホのアプリにもある。
紙のチラシの特別感は、街の雑音の中ですぐに溶けてゆく。
結局、この二つだけが今回のケチ飯ロードの収穫だった。
どこかのテレビ番組が追いかける旅する
絶滅危惧メシとは違う。
こちらは、都市の構造材としての吝嗇を

ただ静かに記録する、ひっそりした道のりだ。
吝嗇は貧しさではなく、
生活を支えるための小さな選択の積み重ねである。

ひとつ、小さな話を。
ドリンクバーは税込百五十円。
ただ、ある問いに正しく答えれば税込百円になる。

昭和四十年を西暦で言うと 一九六五年。

その数字をタッチパネルに入力するだけで、
ひとときの飲み物が、さらに五十円安く手に入る。
誰にとっても取るに足らない、
忘れればそのまま消えてしまう数字だ。

けれど、こうした小さな数字の差が積もる場所で、
人はなんとか生活を形づくっていく。

都市に生きるということは、
そうした微細な抵抗の上に立ち続けること
なのかもしれない。

今日のケチ飯ロードは、静かな灯のようだった。
誰に見えなくても、消えずに燃えているものがある。

ラベル:

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