祢宜島、ラーメン屋の椅子は動かない
焼津の夜は、湿り気を帯びた風が、
街の表面をそっと撫でていた。
金曜日。仕事帰りの身体に
微熱のような疲れを残したまま、
「祢宜島(ねぎしま)」という地名に
引っ張られるように、カナキン亭本舗へ向かう。
読み方を看板で初めて知り、心の中でひとつ頷いた。
この店には2017年にも一度来ている。
焼津の現場勤めの頃、
休日出勤の昼休み、同僚に連れられて入った。
ラーメン好きの彼らに囲まれ、
社会人の作法のように、一番安い一杯を頼んだ――
その程度の記憶だけが、ぼんやりと残っている。
六年ぶり。
今度は一人で、自動ドアの前に立つ。
ラーメン屋はどこも段取りが早く、昔から少し苦手だ。
カウンターへ向かおうとした時、店員の声が飛んだ。
「何人? 券を発券してっ!」
空気がすこし裂けた。
そういえば券売機の店だった。だが視界には見当たらない。右を見ても左を見てもなく、
壁際の陰にひっそりと佇んでいるのを、ようやく見つけた。
本当はプロペラ麺を押すつもりだった。
だが指先は隣のチャーシュー麺に触れ、
機械は容赦なく反応した。
訂正の手段もなく、ただ立ち尽くす。
席に腰を下ろすと、椅子はびくとも動かない。
吉野家でよく見る、逃げ場のないタイプだ。
座り直すこともできず、自然と背筋だけが正される。
「ご飯、入る?」
おばちゃんに声をかけられる。無料の白米らしい。
ラーメンに白米の組み合わせは初めてだ。
花月嵐のブタメシとは違うらしい。
せっかくなのでお願いする。
店内は空いていた。
2017年は座敷の奥に押し込まれて落ち着かなかったが、
今回は広いカウンター席。
注文してから提供までの速度も、相変わらず早い。
チャーシュー麺が届いた。器の下には受け皿。
まるで日本酒のような佇まいだ。
仕切り壁の向こうから、
おばちゃんがそっと右側に置いてくれる。
その慎ましい気遣いに、小さく胸をなで下ろす。
スープをひと口。酸味が立っている。
豚骨ばかり食べてきた舌には、初めての風だ。
麺の種類に特別なこだわりはない。
口の中で渋滞しなければ、それでいい。
蓋の構造も分からず、あきらめてニンニクと酢を少しだけ。
酸味の強いスープに酢を足すのは、少しやりすぎだった。
帰宅してから、唐辛子入りの酢があったことに気づく。
あの赤い瓶は飾りではなかった。
プロペラ麺は辛いと聞く。
今日は汗だくになる気分でもなかったので、
誤ってチャーシュー麺を選んだのは、結果的に正解だった。
チャーシューは大きく、厚みがあり、静かな満足があった。
カナキン亭は他にも店舗があるが、
造りも人も違うだろう。
戸惑いを避けるためにも、
しばらくは祢宜島店に通うつもりだ。
お冷のセルフにも苦戦した。
氷がドバドバ落ちてきて焦った。
水の位置を確かめる余裕もなかった。
それでも、ラーメンは確かに美味しかった。
緊張と不器用さを抱えたまま、それでも食べ終えた。
誰も気にしていないはずなのに、
六年前の自分が、どこかでじっと
こちらを見ている気がした。
ラベル: 食通風気取り





