二月の午後だった。
晴れているのか曇っているのか判然としない空の下、
社用車の給油に向かった。町のどこにでもある、
特徴のないガソリンスタンドだ。
僕は昔から、人と目を合わせるのが得意ではない。
視線の置き場を測りかね、いつも宙に逃がしてしまう。
けれど、その日はふと、こちらをかすめるような
気配のようなものが、胸の奥でざらりと動いた。
給油に出てきた若い男性の胸元で、
「K.K」と記された名札が揺れていた。
源氏名めいた雰囲気すらある。
その下に、細いペンで書かれた一行。
──趣味:バレー
ただそれだけなのに、妙に引っかかった。
名レシーバーだろうか。
ジャンプサーブが得意なのかもしれない。
もちろん本人に聞くわけもなく、
決められた量の燃料(157円/L)を買い、
いつものようにスタンドをあとにした。
そこで、時間は跳ぶ。
三月二日。
昼は二十歳の女の子とサイゼリヤでランチ、
夜は三十九歳の女性と、またサイゼリヤでディナーだった。
気づけば、開始から
ほぼ十二時間、飲みっぱなしだったことになる。
後になって思えば、あの日のうちに、
運命の傾斜は静かに始まっていたのかもしれない。
そんな夜、テーブルの上でLINEが震えた。
「◯◯なう(顔文字付き)」
ダサい。時代遅れ。
差出人はTだった。
ドン小西の全盛期を思わせるような、
無駄に派手な格好の男だ。
そのTが、僕のいるサイゼリヤのすぐ近くにいたことが、
Facebookのチェックインで暴露されたらしい。
無視という小さな地獄を避け、返信した。
「今から逝きます…」
向かいの彼女は、気まずそうに席を立った。
明るい店内の中で、ぽつりとひとりの影だけが残る。
だが、Tがいる。だから、ひとりではない。
本音を言えば、Tと飲むくらいなら、
ひとりでいた方がよかった。
両替町の居酒屋に着くと、
店先で迎えてくれたのは髭の濃い男性だった。
髭の殿下を思わせる立派な髭で、
痩せればギリシャ彫刻のような
輪郭になりそうな顔をしている。
だが視線は、自然とその左胸へ落ちた。
名札──そして、そこに書かれた一行。
──趣味:バレー
またバレー。
K.Kくんの名札が、ふと頭をよぎる。
昼からワイン飲みっぱなしの
酔いも回って、口も軽くなっていた。
「バレー? 名セッター? 名レシーバー? 名アタッカー?」
オバサマじみた質問を連射すると、
彼は困ったように笑った。
「あ……バリボーではなくて
踊るほうなんですよ。バレエの」
世界が一瞬、間延びした。
「ひぇぇぇぇ……」と声が漏れた。
似合わない、とは言わなかった。
その分だけ、僕の理性はまだ生きていたのかもしれない。
Tは相変わらず酒癖が悪く、僕の腕を乱暴に引っ張る。
すぐ説教をしはじめ、
放っておけば知らない誰かを巻き込みかねない勢いだった。
けれどその夜の僕は、Tよりも、
「二つのバレー/バレエ」の偶然に心を奪われていた。
どうして、
こういう取るに足らない一致ばかりが胸に刺さるのだろう。
偶然ではなく、この薄暗い居酒屋の
空気のせいかもしれない。
あるいは僕の孤独の形が、
そういうものにだけ敏感なのかもしれなかった。
本編は、そこで終わる。
サラリーマン川柳のような落ちだ、と自分でも思う。
だが、くだらなさの中でしか
拾えない瞬間が、ときどき人生にはある。
▼ 余談
昼のサイゼからはじまり、
夜は洋食疲れの舌のまま居酒屋へ。
「オススメください! 何が出ても文句は言いません!」
出てきたのはナポリタンとチーズオムレツだった。
和風の空気が濃い店内だったので、
てっきりマグロの刺身あたりが来るのだろうと身構えて、
お醤油まで注いでいたのに――
またイタリアンかよ、と、静かにため息を落とした。
ラベル: 長い文章