1/29/2013

恩は売らないブックオフ


   よく見かける。
自分の愛読書を、何のためらいもなくネットに晒す人。
それが「文化的な共有」なのだとしたら、
どうにも僕は、その文化に馴染めない。

そもそも他人に、
自分の本棚のありようを見せることに、強い抵抗がある。
本棚とは、生活の断面であり、
もう少し正直に言えば、恥部に近い。
それを晒す潔さを、残念ながら僕は持ち合わせていない。

──が、しかし。
今日、気まぐれに目にした占いには、こう書いてあった。
「自己開示が幸運を呼ぶ」と。

ならば、試してみよう。
退屈な日常にも少し飽きていたし、
どうせなら、自虐も混ぜてみる。

1998年。
僕が愛読していた文庫本が、これだ。

「女がデキすぎて困ってしまう!
 ネットナンパ完勝読本」

ノウハウ満載、体験ルポぎっしり。
双葉文庫は「面白文庫」──らしい。

……どうだ。
笑えないだろう。

実際、2013年の今となっては、
この本の内容はほとんど役に立たない。
ブックオフに持ち込んでも、買取はゼロ円だった。
完全にOFF。
あのブックオフが、である。

恩を売る気すら起きない。
そんな本。

つまりこの一冊は、社会的にも「無効化」されたわけだ。

もし、あの頃の僕のように、
何かを信じてしまいそうな20代がいるなら、
105円でもいい。
僕に、少し恩を売っておくといい。

あとで、何かいいことがあるかもしれない。
……と言い切れないところが、いかにも僕らしいが。

それでも、この本は、棚にある。
処分されず、役にも立たず、ただ残っているだけだ。

それだけで、
今のところは、十分なのだと思っている。

ラベル:

初代iMacの衝撃


   1998年、初代iMacが登場した。
あれは確かに、衝撃だった。

筐体の色やスケルトンデザインが話題になったが、
自分にとっての衝撃は、見た目の問題ではない。
あれは、人生の向きが、
ほんのわずかにずれた瞬間だった。

それまで使っていたのはPC-9801。
戦国シミュレーションや、
アリスやエルフのゲームに没頭し、
日本独自の規格が、まだ当たり前の
ように存在していた時代だ。

その後、IBM互換機に移り、Windows 95を使い始めた。
性能に不満はなかったが、
どこか無骨で、感情の入り込む隙はあまりなかった。

iMacは、そこに違う空気を持ち込んできた。
最初から入っていた、ポストペットというメールソフト。

メッセージを運ぶキャラクターの存在が、
通信を単なる機能ではなく、
時間を伴う行為に変えていた。

返事はすぐには来ない。
待つ時間があり、そのあいだに想像が入り込む。
今思えば、その遅さこそが、
当時のネットの温度だったのだと思う。

メールは、言葉だけのやり取りだった。
通知もなく、位置情報もなく、
反応の速さを競うような空気もない。
それでも、文字のやり取りだけで、
人と人の距離が、確かに縮まる感覚があった。

光の粒にすぎないテキストが、
誰かの気持ちを動かす。
そんなことが、特別ではなく、
日常の中で起きていた。

すべてが叶うわけではない。
近づいた距離もあれば、
最後まで埋まらなかった距離もあった。
それでも、その不確かさ込みで、
ネットはまだ、どこか牧歌的だった。

当時、パソコンは「孤独な道具」
だと思われていた節がある。
けれど、画面の向こうには確かに人がいて、
その存在を、時間をかけて感じ取ることができた。

今のSNSと比べると、
ポストペットの歩みは、驚くほど遅い。
だが、その遅さが、
やり取りを軽くしすぎなかったのも事実だ。
こうして、今も文章を書いている自分がいる。

その理由を、ひとつに絞ることはできないけれど、
あの青い筐体が残した余韻が、
どこかでまだ続いている気はしている。

ラベル:

1/27/2013

更新されない本名の僕


   Facebookは本名で使っている。
少なくとも、アカウント上では。
ただ、最近はほとんど更新していない。というより、
まったく書いていないと言っていい。
理由を探せばいくらでも思いつくが、
どれも決定打ではない。
忙しいわけでも、特別に隠したいことがあるわけでもない。
ただ、書く気が起きない。それだけだ。

使い続けていくうちに、このサービスが前提としている
「人との距離感」に、
少しずつ違和感を覚えるようになった。

何かを書けば反応が返ってきて、それが次の更新を促す。
そうした流れが、自分の中では、
いつの間にか負担になっていた。

本名である、ということも関係しているのかもしれない。
名前が現実に近づくほど、書けることは逆に減っていく。
更新されないのはアカウントではなく、
「本名の自分」のほうなのではないか、と思うことがある。
人としての軸がぶれていない、とは言えない。

それでも、ぶれているなりに、
もう少し静かでいたい時期なのだと思う。

だから今日も、Facebookは開かれないままだ。
本名の僕は、更新されないまま、そこにいる。

ラベル:

1/20/2013

物欲番長


   最近、どうにも物欲が落ち着かない。
スタパ齋藤さんのレビューを読むたびに、
「これは必要かもしれない」という気分になり、
そのまま購入画面まで進んでしまう。
あの人の文章には、不思議な力がある。

単にモノを褒めているのではなく、
「使っている時間」そのものが伝わってくる。
読んでいるうちに、所有することが、
どこか自然な流れのように思えてくるのだ。

自分も、決して堅実な消費者ではない。
気に入れば、あまり迷わず買う。
後先を考えないという点では、
スタパさんの「物欲番長」ぶりに、
妙な親近感を覚える。
スタパ齋藤さんのレビューが面白いのは、
モノの話をしながら、
結局は人間の話になっているところだ。

なぜそれが欲しくなるのか。なぜ手放せなくなるのか。
そうした感情の動きが、
説明されることなく、文章の行間に残っている。

だから、あのウェブログは、単なる物欲の記録ではない。
レビューという形式を借りた、
ひとつの自画像なのだと思う。

いつか自分も、そういう文章を書けたらいい。
欲しいものを語りながら、その奥にある自分の輪郭まで、
きちんと滲ませるような文章を。

ラベル:

1/19/2013

1000文字の顕示


   LINEのタイムラインには、
投稿できる文字数に上限があると知った。

最近、自己顕示欲に火がついている身には、
1000文字は少し窮屈だ。

推敲とは、削ることだと言われる。
削ることでしか伝えられない欲望は、
もともとその程度のものなのかもしれない。

「してください」と言われると、
急に言葉が縮こまる。
自己表現は、命令形に弱い。

定額制の安心感に身を預け、
誰もが「言ってもいいはずだ」と思いながら、
画面越しに主張を投げ続けている。
それは、議論というより、
独り言に近い。

唾液も飛ばず、熱も伝わらない。

最近、ひとつ気づいたことがある。
人は、ネット上の違和感に対して、
まるで患部に軟膏を塗るように、
人差し指で触れている。

薬指ではない。
本来、優しさを担うはずの指は、
あまり使われない。

それが、
いまのネットの作法なのかもしれない。

スマートフォンを握りしめ、
誰もが暇つぶしの延長で、
誰かの輪郭を、少しずつ削っている。

1000文字という制限は、
そうした曖昧な摩擦に対する、
小さな防波堤のようにも思える。

それでも、顕示欲は消えない。
ただ、できることなら、
少しだけ品よく、
少しだけ静かに、
触れる指を選びたい。

ラベル:

1/16/2013

僕の手から遠ざかる──AQUOS PHONE ZETA SH-02Eと国産スマホの予感


   AQUOS PHONE ZETA SH-02E
を使い始めて、まず感じたのは、
電池の持ちの良さだった。特別な設定をしなくても、
一日きちんと動いてくれる。

それだけで、道具としての信頼感が生まれる。
国産のスマートフォンが、まだ現場に立っている。
その事実を、素直にうれしく思った。

僕は、国産に頑張ってほしいと思っている。
愛国心のような大げさなものではない。
日常で使う道具として、選択肢が残っていてほしい、
という切実な願いだ。

ただ、気になる点もある。
Androidのバージョンは4.2ではなく、4.0のまま。
致命的というほどではないが、時代の流れに、
半歩だけ遅れているような感覚は拭えない。

そして、何より気になったのが、バッテリーが
取り外せないという仕様だった。

僕にとってスマートフォンは、密閉された完成品ではない。
使い込まれ、ときには電池を交換し、
手を入れながら延命させていく道具だと思っている。

バッテリーが取り外せないというのは、
使い手の手から、道具の一部が静かに
遠ざかっていくような感覚に近い。

この時点では、まだそれが「当たり前」ではない。
だが、いずれそういう流れが
主流になるのかもしれない、という予感はある。
もしそうなってしまったら、少し寂しい。
交換できるバッテリーは、僕に
とって呼吸のような存在だった。

それが失われたとき、
端末は「使い続ける道具」ではなく、
「消費される箱」に近づいてしまう気がする。
それは、設計の良し悪しというより、距離の問題だ。
使い手が手を入れられる余地があるかどうか。
その余白があるかぎり、
道具との関係は、もう少しだけ長く続いていける。

今のところ、僕はまだ、
その余白に手を伸ばしたいと思っている。

ラベル:

1/13/2013

「おひとりさま」が軽くなった頃


   最近よく耳にする「おひとりさま」という言葉に、
少しだけ引っかかることがある。
それが状態というより、
ひとつのスタイルとして
語られているように聞こえるからだ。

スマートフォンを持ち、
SNSも使い、常につながっている。

それでも「ひとり」を選んでいる、という言い方。
実際には孤独というより、
距離の取り方に近いのかもしれない。

思い返せば、
昔にも似たような言葉があった。
体質だとか、
心の不調だとか。
説明としては便利で、
ときに自分を守ってくれる言葉でもあった。

僕自身は、長くひとりで過ごしてきた。
焼肉を一人で食べることにも、
いまさら理由はいらない。

静かで、
誰にも急かされず、
見られている感じがしない。
そう思えるようになるまでには、
それなりの時間がかかった。

だから、まだ二十代そこそこで
「もう十分ひとりだ」と言い切るのを見ると、
少しだけ、急いでいるようにも感じる。

ひとりでいることが悪いわけではない。
ただ、人に振り回され、うまくいかず、
引き返せない夜をいくつか通らないまま
選ばれる「ひとり」は、どこか軽い。

孤独は、最初から選ぶものというより、
遠回りの末に、気づけば立っている場所に近い。

世の中を、少し距離を置いて眺める視線も、
そのあとで、ようやく身につく。

今の「おひとりさま」は、
まだ途中の形に見える。
悪くはない。

ただ、落ち着くには、
もう少し時間が要る気もする。

そんなことを考えながら、
今日も一人で、肉を焼いている。

ラベル:

1/11/2013

指先の都市計画──Apex Launcher


   彼は、今日もAndroidの
ホーム画面を眺めている。
それは単なる操作というより、
都市の余白を歩き回るような時間だ。

Apex Launcherという
小さなツールを手に入れてから、
指先は配置と秩序に、
以前よりも意識を向けるようになった。

アイコンを並べ替え、
必要なアプリだけを呼び出す。
背景には、目立たない壁面の写真を選ぶ。

既製品の美学に逆らう、
というほど大げさな話ではない。
ただ、自分にとって落ち着く構造を、
静かに整えていくだけだ。

そこには広告も通知もない。
あるのは、選び取られた配置と、
意図的に残された余白だけ。

「楽しくて、しょうがない」
そう言って、少し照れたように笑う。

彼にとってカスタマイズは、暇つぶしではない。
関係性や即時性に引き寄せられすぎないための、
ひとつの距離の取り方だ。Apex Launcherは、
その感覚を支えるための、ただの道具にすぎない。

今日もまた、誰にも気づかれない画面の上で、
小さな秩序が更新されていく。

ラベル:

1/07/2013

明日から仕事始め


   先月の二十九日から、正味九日間の休暇だった。
長いようで、終わってみればあっという間だ。
紅白も観ず、初詣にも行かない。
誰かの家を訪ねることもなければ、
忘新年会や歓楽街とも無縁だった。
外出といえば、朝晩の犬の散歩くらい。
年末年始を通して、
ほとんど家から出なかったと言っていい。

別に、後悔はしていない。
もともと人付き合いは、それなりに
気力を消耗するものだと思っている。
ただ、そうして静かに過ごした分、
明日からまた始まる「人の中での生活」
を思うと、胃のあたりが、少し重くなる。

胃といえば――昨日は久しぶりに、
はっきりとした二日酔いだった。
一人での宅飲みが過ぎて、焼酎を
トマトジュースで割るという、
健康に配慮しているようで、まったく
配慮していない飲み方をした結果、
今年最初の嘔吐を経験することになった。

リコピンを摂っていようが、
二日酔いになるときは、なる。
身をもって、それだけは理解した。

一日中、布団の中で、吐き気と
頭痛が引くのを待っていた。
もちろん、自己嫌悪も一緒だった。
迎え酒という発想は、昔からない。
あれは不快感を誤魔化しているだけで、
身体そのものは、確実に消耗している。
そうやってやり過ごせる人もいるのだろうが、
少なくとも自分には、あのやり方は合わない。

さて、明日から仕事始めだ。
人付き合いは相変わらず面倒だが、
今年は、ほんの少しだけ、年齢や立場を気にせず、
人と交わってみてもいいのかもしれない。
うまくいけば、ブログのネタくらいにはなるだろう。

――そんなことを考えながら、
今夜はもう、休むことにする。

ラベル:

1/06/2013

Androidのホーム画面を弄ってみたが


   Androidのホーム画面を、少し触ってみた。
率直に言えば、まだどこか野暮ったい印象が残る。

ただし、それは完成度の低さというより、
余白の多さに近い。
ランチャーやドロワーアプリを工夫すれば、
配置はもっと整理できるし、
見た目も洗練させられるはずだ。

初期状態のままでは見えにくいだけで、
その可能性自体は、きちんと用意されている。

iPhoneでは許されないやり方で、
使い勝手と見た目の両方を、
自分の手で組み立てていく。

AndroidというOSには、
そうした試行錯誤を受け止める余地が、
まだ残されている。

もう少し時間をかけて、試してみたい。
結論を出すには、少し早い。

ラベル:

あるAndroid管理ソフトの話


   Windows向けのAndroid管理ソフトが出たらしい、
という話を目にした。なるほど、
こういうものが必要とされる時代になったのだな、と思う。

もっとも、対応はWindowsのみ。
Macユーザーの身としては、
「そのうち対応するのだろうか」と、
つい余計な期待をしてしまうものだ。

それにしても思い出すのは、Windows版iTunesの、
あの起動の遅さだ。起動するまでの時間は、
ほんのわずかなものなのだが、
なぜかこちらの忍耐力だけが、毎回きっちり試される。

あれは技術的な問題なのか。それとも――
「iPhoneを使うなら、Macを買えばいいじゃないか」
という、Appleなりの静かなメッセージなのか。

まあ、後者だとしても、いかにも「らしい」話ではある。

ラベル:

1/05/2013

回線を切ってから読む


   ある文章を読んで、
素直に「いい文章だな」と思った。
久しぶりに、そう思わせる文章だった。

考え方も、構成も、よく練られている。
ただ、その文章を通話時間も通信量も気にせず、
ほとんど無意識にスクロールしながら
読んでいる自分に、ふと苦い気分が湧いた。

もし1997年頃だったら――
ページをすべて読み込んだ瞬間に回線を切り、
ブラウザをオフラインにしてから、
改めて腰を据えて読んでいたはずだ。

……というのは、半分ウソだ。

当時の従量制通信には、
「活字を読むために金を払う」
余裕などなかった。文章を読みたければ、
古本屋で100円の文庫本を買うのが、
当時はいちばん賢明な選択だった。

もっとも、自分がそうだったかどうかは、さておき。
少なくとも懸命――つまり必死だった
瞬間は、確かにあった。通信料金を気にしながら、

どうしても「今すぐ確認したい何か」がある時だけ、
ネットに接続した。細部は、ここでは省略する。

ともあれ、多くの日本の男たちと同じように、
それが自分の「ネットの原体験」だった、
と言ってしまえば簡単なのだが――
実は、これも少し違う。

本当のところは、不便極まりないDOS/V機を、
見違えるほど使いやすくしてくれる
フリーソフトの最新版を手に入れるため。

そのために、仕方なくネットに繋いでいた。

そう言っても、今の感覚では
あまり信じてもらえないだろう。

気づけば話が長くなっている。

自分で「ここで終わる」と書いておきながら、
まだ続けているあたり、二学期始業式の
校長先生の話と大差ない。
要するに、当時のネット環境では、
他人の長文をのんびり読む余裕などなかった。

それが今では、哲学めいた文章も、思索的な長文も、
スマートフォンで簡単に読めてしまう。

この風潮が良いのか悪いのかは分からない。
少なくとも個人的には、思考を要する文章を、
常時接続の流れの中で消費することには、
どこか危うさを感じている。

――そんなところで、話を結んでおくことにする。

ラベル:

1/02/2013

g.u.のモッズコートをまた購入


   g.u.のモッズコートを、また買った。
値下がりを待つべきか少し迷ったが、
このままでは売り切れてしまいそうな気がして、
結局、二着まとめて手に入れることにした。
色はオリーブとカーキ。サイズはL。

ヒートテックを着た状態で考えると、
このサイズがいちばん身体に馴染む。
腹まわりの現実はさておき、
服は多少無理をしてでもタイトに着たほうが、
全体の印象は引き締まる。
少なくとも、自分の場合はそうだ。

以前に買ったXLサイズも悪くはなかった。
ただ、どこか野暮ったく感じてしまった。
g.u.らしくない、と言ってもいいかもしれない。
結局、その一着は、
自分より少し体格のいい先輩に譲ることにした。
一度しか着ていないので、ほとんど新品のようなものだ。

参考までに書いておくと、身長は175センチ、
体重は65キロ。ウエストは76。
同じような体型であれば、迷わずLを選んだほうがいい。
少なくとも、自分はそうだった。

ラベル:

1/01/2013

持病(ネガティブうつ状態)の歌

 僕には夢がない。
希望もない。
それに、金もない。

そんなフレーズを、つい歌にしてみたくなる日がある。
冗談のつもりで「ららら〜ん」と付け足してみても、
顔はまったく笑っていない。

実際のところ、そのときの僕は、
家に着くまでまだ十分ほど歩かなければならず、
しかも周囲にトイレの気配が一切ない――
そんな状況で、
腹の具合が微妙に悪い、あの表情をしていた。

文章というのは厄介だ。
活字にしてしまうと、こうした身体の切迫感や、
冗談に見せかけた必死さが、
きれいさっぱり削ぎ落とされてしまう。

ともあれ、今年は持病と
向き合わねばならないと思っていた。
精神的なものもそうだが、まずは粉瘤腫。
命に関わるわけではないが、
気分を確実に曇らせる厄介な存在だ。

そのことを、軽い気持ちでSNSに書いた。
すると、ほどなくして「いいね!」が付いた。

……いいね、とは何だろう。

病気の話題に対して、
反射的に押されるそのボタンが、
なぜか妙に神経を逆なでした。
もちろん、深い意味はないのだろう。

習慣のように反応しているだけだ。
それは分かっている。分かっているのだが、
その日はどうにも受け流せなかった。

世の中には、
そっとしておいてほしい種類の人間がいる。
励ましも、共感も、通知もいらない瞬間がある。

たぶん、あの頃の僕は、
そういう場所に長く立ち止まっていたのだと思う。
最後は愚痴になってしまった。
まあ、それも含めて、当時の症状ということで。

ラベル:

頁のはじめへ