3/29/2010

デコらない爪


   ある習慣に、ふと飽きが差した。
そんな夜更け、気まぐれにmixiの画面を開く。

ここしばらくは、早寝早起き。
週に二度は休肝日。
まるでNHKの健康特集みたいな生活だった。

悪くはない。
けれど、どこか熱の
抜けた規則正しさに、かすかな倦怠が混じっていた。

最近、よく聞く。「イソガシクテ…(笑)」
あの、カッコワライ。
見え透いた言い訳にも
ならないくせに、そこら中に転がっている。

 「ワーカホリックはバーカホリック」──
そんな言葉遊びで気を紛らわせても、
乾いた笑いが頬の奥でひびくだけだ。

ふと鏡を見る夜だった。
鼻の毛穴が妙に気になる。
ドラッグストアの秋の特売で買った
黒いパックを取り出し、一枚だけ、と気まぐれに貼る。
ついでに、mixiモバイルを開いてみた。

「アプリの招待がありんす」

『恋してキャバ嬢』──
名前だけで胸焼けしそうなタイトルだ。
それでも、なんとなくクリックしてしまう自分がいる。

……面白い。
仕事を忘れてしまいそうなほどに。
でも、現実はケータイすら満足に触れない日々。
そのもどかしさすら、いまは少し心地よく感じている。

PCからアクセスできたらと思うこともある。
けれど、くだらぬ通話から
距離を置けている今が、案外悪くない。
ようやく健康と呼べる自分に近づけた気がする。

もちろん、失言にうなされる夜もある。
「ぁぁ……」と、風呂場で蒸されるような後悔。
だが、それも三分と持たない。煙のように消えていく。
あとはまた、図太く生きていける。
声をかけたい相手には、ちゃんと声がかけられる。

悩む時間がないというのは、一種の幸福なのかもしれない。
けれど、修行のような時間は確かに存在している。

どんなに忙しくても、どんなに眠くても。
二日に一度は、夜と朝の狭間で、
135ミリの望遠レンズのような孤独と向き合う。

絶頂のあとの空虚のなか、『小悪魔ageha』をめくる。
これは、苦行だ。
金箔を貼った新興宗教のパンフレットのようなまぶしさ。
それでも、ページの隙間に視野の種が眠っている気がする。

目先の「効率」ばかりを追っていては、
心まで緑内障になってしまう気がするのだ。

今の自分には、いびつな自信がある。
それは誰にでも与えられる
ものではない、どこか壊れかけの形をした自信。
その自信が、胸の奥でなにかをふくらませ始めている。

最近、ひとりの女の子が気になっている。
顔立ちは今風。けれど、爪はまったく飾っていない。

「なんで、ツメが甘いの?」
「昼間、重たい楽器を運んでるから」

その言葉の裏側に、にじむような誠実さがあった。
惹かれてしまったのだ。

その顔が、歪む瞬間を見たいと思ってしまった。
欲望と妄想が、音もなく、胸の奥でふくらんでいく。

民法と民放が、僕を現実に引き戻す。
それでも時々、どこか遠くへ、彼女を連れて行けたら──
そんな夢想にふける夜がある。

行ってみたい。
危うい夢の先に、どんな夜が待っているのか。
「カッコワルイ」と、ひとりで笑っている。

夜の静けさのなかに、ひとつ、
くぐもった笑い声がまぎれている。

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3/16/2010

ミラノワンではなかった僕


   バナナの皮を手鍋に放り込み、
砂糖とスパイスで煮込む。
十五分もゆでてから、それを食べて
みたことがあるだろうか。──僕はある。
あまり大きな声では言えないが。

昔の雑誌に、そうすれば飛べると書いてあった。
嘘か真か、確かめようもない。
けれどあのとき、心のどこかがふっと浮き
上がったような気配だけは、いまも覚えている。

あの感覚を思い出すたびに思う。
本当に怖いのは、写真よりも
──文章なのかもしれない。

三月、雨の土曜日。
その日、僕はある映画を観に行った。
タイトルは、あまり口にしたくない。
有名すぎて、むしろ恥ずかしい。
読んだことがあるとは言いたくない類のものだ。

静岡の「七ぶらシネマ通り」──
古びた喫茶店と映画館がまだ残っている、
少し時間の止まった通り筋。

その一角に「ミラノ」という名の劇場があり、
1番館でその作品が上映されていた。

初めて訪れる劇場。
対人恐怖ぎみの僕は、チケット売り場で
「大人一枚」と言うのがやっとだった。

本当のところを言えば、作品名を
口にするのがどうにも気恥ずかしかった。

ほんの一拍の沈黙ののち、こう口を開いた。
 
「……ミラノいち」

受付のねーちゃんは、業務用の
笑顔のまま、はっきりと返した。

「ミラノワンですね!」

──その瞬間、僕の中で何かがずれた。
あ、通じていない。
いや、通じているのに、通じていない感じ。

「いち」じゃダメなのか?
こっちは数え方のつもりだったのに、
あちらはまるでブランド名のように発音する。

ミラノ『ワン』。

急に洒落っ気を出されたようで、
頬がじわりと熱くなった。
こういう時、僕はうまくやり過ごせない。
自意識の過剰をどうにか
したいと何度も思うけれど、
「わんだふる」なんて語感で自分を
なだめるくらいには、まだ子どもっぽい。

土砂降りの中、ぬかるむ
路地を歩いて劇場へ向かった。
上からも下からも水に挟まれ、
自分の立ち位置まで曖昧になっていく。

その作品を観た理由を言えば──
若い頃、何度も読み返した一冊が原作だったからだ。

思春期の終わり、危ういバランスで生きていた頃の記憶。
同時期に読んでいたもう一冊は、あまりに直接的で、
いま思い出しても背筋が寒くなるほどだ。

危ない組み合わせだった。
映画の中で登場するある薬品名が耳に残っている。
 
「素尿ルリレワムロブ」──あまりに作為的な名前。

昔の僕なら、真に受けて真似しかねなかったと思う。

実際、似たようなことをしていた。
町の薬局で手に入れた睡眠薬に、
どれだけの時間と小遣いをつぎ込んだだろう。
今なら「バカだな」で済むことが、当時は真剣だった。
若さというのは、ときに
信じられないくらい愚かで、まぶしい。

だから「もう消えてしまいたい」と呟く若者を見ると、
いまでも胸が痛む。
かつての自分を見ているようで。

ならばせめて、そばに話せる人間がいる限り、
もう少しこの世にとどまってみないか──
そう声をかけたくなる。

劇場を出ると、雨はまだ降っていた。
けれど少しだけ、視界は晴れていた。
「大人になると、眠るのもひと苦労だ」
──そんな言葉が頭をよぎる。

便利さばかりを追い求め、
陰口が可視化されるようになった今、
小学生でさえ眠れなくなる時代だという。

ネットのせい、という説もある。
けれど本当の敵は、やっぱり自分自身なのだ。
わかっていても、それを手放せない。
そんな人間らしさが、いまも僕の中でくすぶっている。

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3/15/2010

ぼくのフェロモンは間違っているかもしれない


   猫がどうにも苦手だった。
あの冷ややかな目と、決して媚びない気質。
夜更けに飲んだ安酒の、舌に残る
妙な余韻のように、どうも馴染めなかった。

それなのに、そんな僕の偏見を
あっさり裏切る奴が現れた。
妙に人懐こくて、こちらの様子をうかがいながら、
いつの間にか距離を詰めてくる。
「お前も案外、悪くないな」とでも言いたげな目つきで。

最近のささやかな楽しみは、業務の
合間に立ち寄る公園で、その猫と過ごすひとときだ。

ひっそりとした場所。
営業車が何台も停まり、冷えた孤独を
抱えたまま、それぞれが休んでいる。

僕の軽も、その一台。
白い箱みたいな車だ。
少し前にテレビで見た車に似ている。
違うのは、運転手が冴えないという点くらい。

けれど、エンジンを止めると、あの猫は必ず駆け寄ってくる。
他の車には目もくれず、僕のもとへ。

餌もあげたことはないし、名前も呼ばない。
それでも、黙って足元に身を沈める。

今日もそうだ。
まっすぐに、僕のほうへ。 

どうしてだろう、と考える。
だが最近は、いっそ都合よく考えることにしている。
いまの僕には、少しむつごろう成分が
滲んでいるのかもしれない。

忙しい日々が続く。ありがたい話だ。
不景気の風に吹かれながらも、
仕事があるのは幸運だろう。
甘い誘いは横に置き、ひたすら貯めていく。
いつか迎える静かな日々のために。

……たとえ、僕の
フェロモンが間違っていたとしても。

それで誰か──一匹でも──
近づいてきてくれるのなら、
それはそれで、まあ、いいじゃないか。

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3/09/2010

弔いジャパン──過剰覚醒の春


   2009年の春、サムライジャパンが世界を制した。
その栄光からまもなく一年が経とうとしていたが、
当時の僕の暮らしは、
その喧騒から遠く離れた場所にあった。

むしろ、静かに沈んでいく感情の沼地で、
ひとりじっと足元を見つめていた。
あれはもう、「弔いジャパン」とでも
名づけたほうがよかったのかもしれない。

慰めの言葉として、自分の中で作ったフレーズがある──

「陰鬱さもSomeTime」──

語呂の悪い慰め歌みたいなその言葉を、
まるで護符のように唱えながら、電気ブランを煽っていた。

「真面目にやっていれば、いつかいいことがある」

そんな呪文は、もう21世紀じゃ効かない。
あれはどこか、民話のように霞んでいた。

だからこそ、土曜日に届く「どう? 来れる?」の
短いメッセージが、当時の僕をかろうじて
地上に繋ぎ止めていたのかもしれない。

間延びした会合のローテーションにすら、
僕は「ダリーな」のひと言で背を向けた。
なのに彼らは、そんな無愛想な
拒絶にもめげず、声をかけ続けてくれた。

今ならわかる。あのぬるくて、手のひら
みたいな温度の言葉が、
僕を溺れさせない浮き袋になっていたのだ。

僕の中で、弱音はいつだって準備されている。
たぶん、大脳新皮質がそういう構造でできている。

この夜もまた、特売スーパーで買った第三の
ビール500ml缶を三本あけた勢いで、
キーボードに向かっている。

厚生労働省なら「過剰な覚醒」と記すだろう。
海馬がひとりで騒いで、舌がうまく回らない。

それでも、彼らのくだらない言葉が、
だいたい28%くらいの確率で、
僕を現実に引き戻してくれる。
そのくらいの按配が、ちょうどよかった。

ウェブという名前の、果てのない
引き出しのなかに、今日の僕を収めておける。
芸能人でもない僕が、気取ったふうに
日々を「報告」してしまう。
そんなのも、この時代の習性みたいなものだ。

たとえば、「生きてくダサい」なんて稚拙な
文言が携帯に届いても、それが朝のカレーや、
目覚まし時計のけたたましい音と
同じくらいの力で、眠りから引きはがしてくれるなら──
それはもう、割引ワゴンの中で見つけた
サンテ40(定価430円→197円)と同じくらいの効能がある。

こういう文章にアンチがつくこともある。
でも、もはやヘアヌードにも
毒妻本にも検閲が入らぬ時代だ。
ならば、僕のこの文章も、ひとつの
無害な発話として流してしまえばいい。
そうでもしなきゃ、バルビツール酸の
記憶なんて封じ込められない。
もう二度と、それに頼らない時代を生きるために。

なお、数日前に、ある映画を観た。
画面の奥に流れていったのは、
ブロムワレリル尿素、ジアール──。
1993年ならまだ入手できたその名も、今では遠い。

薬の名前にすら、郷愁を覚えていた。
それが、2010年の僕だった。

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