雨とカレーと、ひとり歩きの午後──2003年3月15日
朝から雨だった。目覚めは悪く、
妙な夢にうなされて寝汗をかいたまま、
午前七時半に目を覚ます。
枕元の空気は湿っていて、どこか重たく滞っていた。
台所へ向かい、昨夜の残りの
バーモントカレーをお椀に移す。
無言のまま口へ運ぶと、その甘ったるい
味が、ある記憶を呼び起こした。
ファッション誌で
「ガーリー系」に括られていた、元カノの面影。
……元カレー、なんて呼んだら
怒られるかもしれないけれど。
カレーの粘度みたいにまとわりつく
記憶を洗い流すように歯を磨き、
サプリメントを数粒、ポリポリと噛む。
それだけで、ほんの少しだけ心身の
調子が戻ってくる気がした。
「今日も、なんとかやっていこう」
そう思いながらも、午前中はいつものように、
ネットとメールの往復で時間が溶けていった。
けれど、この日は少し違った。
いつものように二度寝で終わる一日にはしたくなかった。
理由ははっきりしていた。
数日前、静岡駅南口のスターバックスで
見かけたユカの姿が、
心のどこかで引っかかっていたのだ。
あのとき彼女は「オリジナルブレンドで」と言って、
エチオピアとコロンビアを1:2で注文していた。
迷いのない横顔が、ふと頭に浮かんで離れなかった。
どこへでもひとりで行ける人間という在り方に、
少しだけ憧れていたのかもしれない。
今日は、僕も町へ出てみよう。
自分ひとりの意思で、行き先を決めて。
パジャマを脱ぎ、イトーヨーカ堂で
買った黒の長袖シャツに、履き慣れたリーバイス517。
その上にMIZUNOのスーパースタージャージを羽織る。
文字にすればちぐはぐだけれど、
鏡の中では案外まとまって見えた。
数年前、知らない中年男性に
「その革ジャン、いいね」と言われたことがある。
……いや、あれは革ジャンじゃなくて、
ただのジャージだったんだけど。
そんな小さな嘘と、ささやかな装いを
身にまとって、近所のバス停へ向かう。
しずてつバスは数分も待たずにやって来た。
最初の目的地は新静岡センター。
改装されたばかりの「すみや」を、
ユカとは別の友人に教えてもらっていた。
エスカレーターを上り、5階の売り場へ。
J-POPの棚は充実していたが、目当ての
スタン・ゲッツ
『ゲッツ・オー・ゴー・ゴー』は見つからなかった。
店員に尋ねれば早いのに、今日は
遠回りにこだわりたかった。
近道ばかり選んできた自分への、
ささやかな反抗のように。
そのまま4階の丸善書店へ。
『ぐるぐるマップ』を立ち読みして、
ひとりでも入りやすい飲食店を探す。
けれど、誌面には決して書かれていないことがある。
その店が「孤独にやさしい空間かどうか」は、
紙の情報からは読み取れない。
文庫コーナーでふと手に取ったのは、
昭和の風俗を記録した街歩きの本だった。
ノスタルジーと欲望のあわいを描いた文体に、
活字だけなのに息が詰まった。
ページを閉じて、思わずため息が漏れる。
自分自身の「これから」について、
ほんの少しだけ考えていた。
センターでの目的は果たしたものの、
ひとりランチに適した店は見つからない。
仕方なく、呉服町方面へと歩き出す。
途中、電ビルの香水と時計の店
「ウォッチマン」に立ち寄り、
ウルトラマリンを、2,980円で買った。
その場で試したベビードールの香りも悪くなかった。
男がつけても、たぶん大丈夫。たぶん。
空腹が限界に近づいた頃、2001年に
開店したスターバックス静岡丸井店へ足を運ぶ。
数日前にはユカと入った場所。今日は、ひとりで。
何の工夫もなく、キャラメルマキアートの
トールサイズを注文。
2階の窓際席に腰を下ろし、琥珀色の飲み物をすする。
アストラッド・ジルベルトのボサノヴァが流れている。
好きな音楽のはずなのに、なぜか心は
少しそわそわしていた。
ひとりでコーヒーが、まだ
自分の肌になじんでいないのだと思う。
それでも──25%果汁の
Qooみたいなものだと考えれば、しっくりきた。
濃くもなく、薄すぎもしない。
少し物足りないけれど、ちゃんと存在している味。
「Qooって、そういう飲み物だったよな」
ひとりで頷いて、ひとりで少しだけ笑った。
──が、空腹でのコーヒーは胃にこたえる。
暮らし苦、クラシック──胃の奥で同じ響きを立てていた。
早くひとりランチを見つけなければ。
時刻は午後1時を過ぎていた。
センターの飲食フロアをぐるぐる回ったが、
正午過ぎの混雑はまだ続いていた。
紺屋町方面を歩いてみても、
なかなかひとり向きの店は見つからない。
諦めかけたそのとき、呉服町通りの
右手に黄色い看板が目に飛び込んできた。
「あまから亭」──
昨日の夜も今日の朝もカレーだったけれど、
カレー専門店という潔さが、妙にこちらの心を助けた。
勢いのまま暖簾をくぐる。
雨に濡れた舗道の光が、店の名をぼんやりと滲ませていた。
店内はカウンターだけの細長い空間。
飾り気はなく、煤けた壁と古びた木目の中に、
時間が封じ込められているようだった。
メニューはラップで包まれた厚紙。
もちろん、カレーしかない。どこか安心する。
瓶ビールは一本500円。街中にしては、まずまずの価格。
瓶ビールとポークカレーを頼むと、
無愛想なおじさんが静かに言った。
「飲み終わったら、すぐ呼んでね」
回転率を気にしての一言だろうが、
その事務的なやさしさが今の僕にはありがたかった。
ビールをちびちびと飲みながら、千切りキャベツをつまむ。
テレビには近鉄対どこかのオープン戦。
雨の街と古いテレビの音が、
少しずつ酔いをやわらかくしていく。
やがて声をかける。
「そろそろカレー、プリーズ」
誰も見ていないのに、ひとりで小さく噴き出した。
注文したのはポークカレーの大盛り。
カレー皿は直径45センチほどのクリーム色。
福神漬けとらっきょうは好きなだけ盛れる──つまり無料だ。
赤と白のコントラストが、
食卓の上で静かに競い合っていた。
まるで紅白歌合戦みたいに。
苦手だったはずの豚の脂身まで、
この空間ではなぜか美味しく感じられる。
狭く地味なブラウンの内装に華やかさはなかったけれど、
そのぶん自室の生活臭を忘れさせてくれた。
食べ終わる頃には、ビールの酔いがじんわりと効いてきた。
会計は1,350円。
財布から小銭を出すときだけは、少し緊張する。
タクシーを降りるときみたいに。
「ごちそうさまでした」
その一言を、ようやく
酔いの心地よさからか、自然に言えた気がした。
黄色い暖簾を両手で押し開く。
鳩が羽ばたくように、店の外へ。
そして気がついた。傘を忘れた。
酔っていたのか、いなかったのか。
もう一度店に戻り、傘を回収する。
柄のボタンを押すと、
「プシュッ」と音を立てて傘が開いた。
透明なビニールの花が、ゆっくりと頭上に咲く。
雨粒を受けて淡く光りながら、街の輪郭をぼかしていく。
その傘の下で僕は、少しだけ変わった気がした。
(キミ、ちょっと表現がオーバーだよ)
──(大場)
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