2/28/2010

TUMAMI☆一人親睦会


   2010年2月28日。
テレビの右下には、ずっと日本列島が映っていた。
津波警報を示すそのアイコンが、
まるで出血を止められない
身体の断面のように赤く点滅していた。

特に太平洋側からの出血がひどいらしい。
交通機関の麻痺もすごかった。
ドコモ携帯のiコンシェルが、
東海道本線の運転見合わせや渋滞情報を
せっせと知らせてくる。
いつもは便利だが、今日は少しうるさい。

地球はひとつなんだな……と、
唐突にしみじみしてみる。
だがそれ以上の感想もなく、
画面の中の列島を見つめながら、
僕は家の中の事務的な日曜日をこなしていた。

ブルーレイレコーダーを地デジテレビに接続し、
PCでクレジットカードのキャンペーンにエントリーし、
家計簿をつける。

生きていくための、
小さくて確かな作業の連続。

まったく家から一歩も出なかった。

その反動のように、昨日(2月27日)はずっと外にいた。
郊外でパチンコを皮切りに、葵区の繁華街へ。
右手にトートバッグと傘、
首からカメラをぶら下げ、
ただ歩き続けた。

僕は歩くのが好きだ。
それもひとりで、だ。
人で混み合っているほど、むしろ気分がよくなる。
風景の一部に溶け込み、
自分という輪郭がぼやけていく瞬間がたまらない。
このままシュガーみたいに、
静かに溶けてなくなってしまってもいいと思う。

目立つ格好は避けている。
人目を集める服を好む人は、苦手だ。
ブランド名だけで武装しているような人も、
今は関わりたくない。

僕にも、昔はそんな時期があった。
ビジュアル系の真似をして、
妙にタイトで、妙にデコルテを露出した服を着ていた。
あれはあれで面白かったが、
今はアピタやユニクロで手に入る
どこにでもいそうな格好ばかりだ。
好んでいるわけじゃないけど、悪くもない。

さて、前置きが長くなった。
今日のタイトルは「TUNAMI」
ではなく「TUMAMI」──
つまり独り親睦会である。

前から気になっていた「大村バー」へ
昨日ようやく足を踏み入れた。
昭和初期の空気をそのまま閉じ込めたような
大衆酒場で、今年で創業92年になるらしい。

クセのある常連客が多そうで、
なんとなくスナックのような敷居の高さを感じ、
長いあいだ敬遠していた。
でも、いつまでも外側をぐるぐるしてても始まらない。

思い返せば、あの店の前を
何度行ったり来たりしただろう。
まるで18歳のころ、
人目を気にしながら風俗店に
入ろうとしていたあの夜のように。

タイミングを計って、一瞬の隙をついて入る。
リアルなスーパーマリオの一面、みたいな挙動だ。

気づけば、入店までに1時間もかかっていた。
その間に、少し離れたお気に入りの店「時歩」まで
2往復もしていた。
けれどあそこは、いつも長居さんたちの常連で満席。
結局、行き場を失って大村バーの前に戻る。

暖簾の前で深呼吸して、
ウム、と気合いを入れた。

ドアが自動だったのには驚いた。
中は思ったよりも明るく、
客たちは誰もこちらを気にしない。
それぞれが、自分の小さな世界で
お酒を楽しんでいた。
僕と同じ、単独客もちらほら。

自動ドア近くのカウンターに腰を下ろす。
料理のメニューはあるが、ドリンクが見当たらない。
裏に印刷されてるのかと思って
めくろうとしたら、びくともしない。
なるほど、貼ってあった。

「お飲みものは?」
「どんなのあります?」

店員さんが、貼りつけてあるそのメニューを
ためらいなくひっくり返した。
……裏に、あった。

思わず笑ってしまう。
苦くて、照れくさい笑い。
早くこの空気を消したくて、
「とりあえず」とは言わずに
「ナマチュー」とだけ言った。

出てきたのはアサヒスーパードライ。
あまり好みではないが、仕方ない。
中ジョッキを空けながら、
モツ煮込みとホタルイカを頼む。
空腹も手伝ってか、早くも少し酔った。

気がゆるむと、観察が始まる。
周囲の客たちは、何を飲み、
何をつまみにしているのか。

ふと目に留まったのは、
210mlのコップ酒と、赤いおわん。
中身は、雑煮のように湯気を立てている。
なんだろうと思い、
iPhoneで「大村バー おわん」と検索。
出てきた答えは──湯豆腐。

秋から春だけの限定メニューらしい。
これは試すしかない。

見よう見まねで、コップ酒と湯豆腐を注文した。
これが大正解。
最初からこれだけにしておけばよかったと思うほど、
湯豆腐は静かに優しい。
チビチビと酒をなめながら、
豆腐と会話しているような気分になる。

この店にはホッピーはない。
だから次は角ハイボールを。

流行りに素直に乗ってみたが、
やはりここは日本酒一筋が似合う気がした。

来週の土曜日も、またこの街を歩こう。
赤提灯が灯るころ、迷わずこの店に入るつもりだ。

静岡にも、ちゃんといい酒場がある。
少しの勇気で見つかる場所だ。

次は「とりあえず」も言ってみようか。
湯豆腐の湯気の向こうで、
また小さな親睦会を開こう。
独りで、静かに。

ラベル:

2/25/2010

犬のいない夜


   犬がいなくなってから、
生活のいくつかと、ものの見方が、
ほんの少しだけ変わった。

移動中の車窓から見える街並みにも、
自然と視線を向けるようになった。

外回り業務の途中で、かつて
犬と歩いた道を通る日もある。
そのたびに胸の奥が重くなり、
気づくと涙がこぼれていた。

泣くという行為も、
まるきり無意味なものではないのだと、
ようやく知る。

あの頃の自分は、
軽口と小さな欲望の中に沈んでいた。
いまはもう、そうしたものに
ほとんど心が動かない。

不思議なことに、
欲を手放した途端、
人は静かに寄ってくるものだ。

今なら、誰かの話に
少しは耳を澄ませられる気がする。
人生の巡り合わせとは、静かに皮肉だ。

理解を求めているわけでもない。
ただ、この夜にだけは、
記憶の片隅をそっと撫でてやりたくなる。

ラベル:

2/20/2010

雨とカレーと、ひとり歩きの午後──2003年3月15日


   朝から雨だった。目覚めは悪く、
妙な夢にうなされて寝汗をかいたまま、
午前七時半に目を覚ます。
枕元の空気は湿っていて、どこか重たく滞っていた。

台所へ向かい、昨夜の残りの
バーモントカレーをお椀に移す。
無言のまま口へ運ぶと、その甘ったるい
味が、ある記憶を呼び起こした。

ファッション誌で
「ガーリー系」に括られていた、元カノの面影。
……元カレー、なんて呼んだら
怒られるかもしれないけれど。

カレーの粘度みたいにまとわりつく
記憶を洗い流すように歯を磨き、
サプリメントを数粒、ポリポリと噛む。
それだけで、ほんの少しだけ心身の
調子が戻ってくる気がした。

「今日も、なんとかやっていこう」

そう思いながらも、午前中はいつものように、
ネットとメールの往復で時間が溶けていった。

けれど、この日は少し違った。
いつものように二度寝で終わる一日にはしたくなかった。
理由ははっきりしていた。
数日前、静岡駅南口のスターバックスで
見かけたユカの姿が、
心のどこかで引っかかっていたのだ。

あのとき彼女は「オリジナルブレンドで」と言って、
エチオピアとコロンビアを1:2で注文していた。
迷いのない横顔が、ふと頭に浮かんで離れなかった。
どこへでもひとりで行ける人間という在り方に、
少しだけ憧れていたのかもしれない。

今日は、僕も町へ出てみよう。
自分ひとりの意思で、行き先を決めて。

パジャマを脱ぎ、イトーヨーカ堂で
買った黒の長袖シャツに、履き慣れたリーバイス517。
その上にMIZUNOのスーパースタージャージを羽織る。
文字にすればちぐはぐだけれど、
鏡の中では案外まとまって見えた。

数年前、知らない中年男性に
「その革ジャン、いいね」と言われたことがある。
……いや、あれは革ジャンじゃなくて、
ただのジャージだったんだけど。

そんな小さな嘘と、ささやかな装いを
身にまとって、近所のバス停へ向かう。
しずてつバスは数分も待たずにやって来た。

最初の目的地は新静岡センター。
改装されたばかりの「すみや」を、
ユカとは別の友人に教えてもらっていた。

エスカレーターを上り、5階の売り場へ。
J-POPの棚は充実していたが、目当ての
スタン・ゲッツ
『ゲッツ・オー・ゴー・ゴー』は見つからなかった。

店員に尋ねれば早いのに、今日は
遠回りにこだわりたかった。
近道ばかり選んできた自分への、
ささやかな反抗のように。

そのまま4階の丸善書店へ。
『ぐるぐるマップ』を立ち読みして、
ひとりでも入りやすい飲食店を探す。

けれど、誌面には決して書かれていないことがある。
その店が「孤独にやさしい空間かどうか」は、
紙の情報からは読み取れない。

文庫コーナーでふと手に取ったのは、
昭和の風俗を記録した街歩きの本だった。
ノスタルジーと欲望のあわいを描いた文体に、
活字だけなのに息が詰まった。

ページを閉じて、思わずため息が漏れる。
自分自身の「これから」について、
ほんの少しだけ考えていた。

センターでの目的は果たしたものの、
ひとりランチに適した店は見つからない。
仕方なく、呉服町方面へと歩き出す。

途中、電ビルの香水と時計の店
「ウォッチマン」に立ち寄り、
ウルトラマリンを、2,980円で買った。
その場で試したベビードールの香りも悪くなかった。
男がつけても、たぶん大丈夫。たぶん。

空腹が限界に近づいた頃、2001年に
開店したスターバックス静岡丸井店へ足を運ぶ。
数日前にはユカと入った場所。今日は、ひとりで。

何の工夫もなく、キャラメルマキアートの
トールサイズを注文。
2階の窓際席に腰を下ろし、琥珀色の飲み物をすする。

アストラッド・ジルベルトのボサノヴァが流れている。
好きな音楽のはずなのに、なぜか心は
少しそわそわしていた。

ひとりでコーヒーが、まだ
自分の肌になじんでいないのだと思う。
それでも──25%果汁の
Qooみたいなものだと考えれば、しっくりきた。

濃くもなく、薄すぎもしない。
少し物足りないけれど、ちゃんと存在している味。

「Qooって、そういう飲み物だったよな」

ひとりで頷いて、ひとりで少しだけ笑った。

──が、空腹でのコーヒーは胃にこたえる。
暮らし苦、クラシック──胃の奥で同じ響きを立てていた。

早くひとりランチを見つけなければ。
時刻は午後1時を過ぎていた。

センターの飲食フロアをぐるぐる回ったが、
正午過ぎの混雑はまだ続いていた。
紺屋町方面を歩いてみても、
なかなかひとり向きの店は見つからない。

諦めかけたそのとき、呉服町通りの
右手に黄色い看板が目に飛び込んできた。

「あまから亭」──
昨日の夜も今日の朝もカレーだったけれど、
カレー専門店という潔さが、妙にこちらの心を助けた。

勢いのまま暖簾をくぐる。
雨に濡れた舗道の光が、店の名をぼんやりと滲ませていた。

店内はカウンターだけの細長い空間。
飾り気はなく、煤けた壁と古びた木目の中に、
時間が封じ込められているようだった。

メニューはラップで包まれた厚紙。
もちろん、カレーしかない。どこか安心する。
瓶ビールは一本500円。街中にしては、まずまずの価格。

瓶ビールとポークカレーを頼むと、
無愛想なおじさんが静かに言った。

「飲み終わったら、すぐ呼んでね」

回転率を気にしての一言だろうが、
その事務的なやさしさが今の僕にはありがたかった。

ビールをちびちびと飲みながら、千切りキャベツをつまむ。
テレビには近鉄対どこかのオープン戦。
雨の街と古いテレビの音が、
少しずつ酔いをやわらかくしていく。

やがて声をかける。
「そろそろカレー、プリーズ」
誰も見ていないのに、ひとりで小さく噴き出した。

注文したのはポークカレーの大盛り。
カレー皿は直径45センチほどのクリーム色。
福神漬けとらっきょうは好きなだけ盛れる──つまり無料だ。

赤と白のコントラストが、
食卓の上で静かに競い合っていた。
まるで紅白歌合戦みたいに。
苦手だったはずの豚の脂身まで、
この空間ではなぜか美味しく感じられる。

狭く地味なブラウンの内装に華やかさはなかったけれど、
そのぶん自室の生活臭を忘れさせてくれた。
食べ終わる頃には、ビールの酔いがじんわりと効いてきた。

会計は1,350円。
財布から小銭を出すときだけは、少し緊張する。
タクシーを降りるときみたいに。

「ごちそうさまでした」

その一言を、ようやく
酔いの心地よさからか、自然に言えた気がした。

黄色い暖簾を両手で押し開く。
鳩が羽ばたくように、店の外へ。
そして気がついた。傘を忘れた。

酔っていたのか、いなかったのか。
もう一度店に戻り、傘を回収する。

柄のボタンを押すと、
「プシュッ」と音を立てて傘が開いた。
透明なビニールの花が、ゆっくりと頭上に咲く。
雨粒を受けて淡く光りながら、街の輪郭をぼかしていく。
その傘の下で僕は、少しだけ変わった気がした。

(キミ、ちょっと表現がオーバーだよ)
──(大場)

ラベル:

2/18/2010

静岡の春、20歳の君と──2003年3月の記録より


   2003年3月10日。
静岡に、春の匂いがほんのりと混じりはじめた頃だった。

その日は有給を取っていた。
理由は、職場には言わなかった。

朝から、少し落ち着かなかった。
以前からメールをやりとりしていた女性と、
初めて会う日だった。

彼女は二十歳の短大生。
仮にユカと呼ぶことにする。
待ち合わせは、静岡駅南口に
できたばかりのスターバックス。
細江町から、バスと電車を乗り継いで来るという。

「9時34分の電車に乗りました」
「11時44分に静岡着です」

そんなメールが、数通届く。
そのあいだ、僕は家でネットを眺めながら時間を潰し、
10時半を過ぎてから家を出た。

静岡駅に着いたのは、11時30分頃。

「黒いレザーコートで、本を読んでる少女が私です」

「少女」という言葉に、
わずかな時代の温度差を感じた。

スターバックスの窓際を覗くと、すぐに彼女が目に入った。
黒のロングコート。膝を組み、
鞄から本を取り出そうとしている。
写真で見たより、少しだけ痩せていた。

正面から近づくのは芸がない気がして、
パントマイム風でいこうと、
いったん店の外へ出てガラス越しに視界へ回り込む。
軽く二度、ガラスを指で叩いた。

彼女は驚きもせず、すっと微笑んだ。
わずかに目元が緩んだだけだった。

軽く手を振り合い、店に入る。
彼女の正面に腰を下ろす。

「はじめまして」
「こんにちは」

そんな簡素な言葉だけが交わされた。
会話というには、まだ早い、薄い挨拶。

メールでは軽口も叩けたのに、
向かい合うと、互いに言葉が続かない。
それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。
奇妙な安心感のある沈黙だった。

ぎこちないまま店を出て、
僕らは駿府公園へ向かった。
歩いているあいだだけ、沈黙が自然に許された。

市内を走る「駿府浪漫バス」に乗る。
名前に似合わず、ネオン街のように派手で、
少し胡散臭い色使いだった。

月曜の午前。
車内はがらんとしていた。

目的地の児童会館は休館日。
静岡に住んでいながら、その事実を僕は知らなかった。
彼女は、特に驚く様子も見せない。

「せっかくだし、カフェに行きませんか?」

彼女が言う。

「うん、いいですね」

平静を装って答える。

彼女は鞄から雑誌の切り抜きを取り出した。
スイーツと紅茶の特集。
どうやら事前に調べていたらしい。

向かったのは「C・K・S」というカフェ。
男性ひとりでは入りにくい店で、
彼女は前にも来たことがあるらしかった。

白を基調とした洋風の外観。
店に入ると、甘いバニラの香りが漂っていた。

ソファ席に案内され、
彼女はメニューを開く前から注文を決めていた。

僕は野菜カレーのランチセット。
彼女はスープとライスのセット。

どちらにもドリンクと小さなパフェがついて、
きっかり1,000円。

料理が運ばれてくると、
彼女はためらいなく鞄からデジカメを取り出した。
シャッターを押す手に、迷いがなかった。

「おばあちゃんに、デジカメとパソコン、
買ってもらったんです」

何気なくそう言って笑う。

──僕の子どもの頃、
祖母からもらえる最高額は、せいぜい百円玉だった。

夢の話になった。

「自分のカフェ、いつかやりたいんです」

その声には力みがなかった。
夢というより、
視野の中にすでに置かれているもののような静けさだった。

食事のあいだ、彼女は店内をよく見ていた。
テーブルの質感、椅子の布地、照明の色、
店員の制服──
どれも彼女の目に入り、
ひとつずつ記録されていくようだった。

「記者になれるかもね」と僕が言うと、
「それは無理かも。飽き性なんで」と、すぐに返された。

だが、本質は記録する人だった。
拾われるべき何かを、
無意識に探し続けている目をしていた。

やがて、
いじめられていたこと、
同年代と馴染めないこと、
年上の人に惹かれることを話してくれた。

「彼氏いない歴20年」なんて、
あれは、照れ隠しの冗談だった。

昼下がり。
彼女がどうしても見たいというので、丸井へ向かう。

目当ては高級時計「ブライトリング」─。
32万円のモデルに恋していて、
静岡に来るたび、ショーケースを覗きに来るのだという。

ねだられることはなかった。
彼女は驚くほど自然に店員と話していた。

商店街での時間を、
全力で楽しもうとする姿勢。
それに対して僕は、
どこか「外から見られる自分」を気にしてしまう。

彼女の眩しさは、
僕にとっての、
ちょっとした生き方のヒントのようだった。

エスカレーターを上がる途中、
彼女が肘で僕を突く。

「ほら、あの人……!」

視線の先には、男性店員。

「前にナンパされて、ちょっと遊んだことがあるの」

街の喧騒のなかでも、
彼女の芯の強さは変わらなかった。
雑草のように、
誰の評価も気にせず根を張っている。

僕は敬意を込めて、素直に言った。

「見た目は、ちょっとプライド高そうだけど、
知らないことはちゃんと知らないと言うんだよね」

ユカは二重まぶたをわずかに広げて、
「うん。それって、けっこう大事」と答えた。

「オトナって、そういうとこ見せないの」

そのまなざしは、
どこか好意を帯びていた。
気づけば、互いに敬語を使わなくなっていた。

丸井を出て、欅通り沿いの、
もう一軒のスターバックスへ。
2001年にできた店で、
テラス席から通りを見下ろせる。

ユカは「オリジナルブレンドで」と言って、
エチオピアとコロンビアを1:2で注文した。
砂糖もミルクも使わず、
苦味の奥に、まろやかさのある味。

──この頃から、
彼女の、もうひとつの顔が見えはじめた。

カップを両手で包み、
ふいに鞄からスケッチブックを取り出す。

文庫本ほどのサイズ。
革風のカバーには、使い込まれた艶があった。

「わたし、絵、描くの……見る?」

控えめな言葉とは裏腹に、
線には迷いがなかった。

スケッチには、
放射線状の陰影が美しく入った裸婦像。

「裸の女の人、描くのが好きで……」

彼女は、カップを口元に運びながら静かに言った。

僕はその姿を、ロモカメラで数枚撮影した。
シャッター音は小さく、誰にも気づかれなかった。

──数日後。
現像された写真に、僕は驚いた。
甘いピンボケの中に、
彼女の表情だけが浮かんでいた。

目が柔らかくなる瞬間というのは、
たしかに存在するのだと思った。

そのあと「キルフェボン」へ。
静岡で人気のタルト専門店。

僕はチーズタルト。
彼女はフルーツの何か──
名前は、もう忘れてしまった。

印象に残っているのは、
彼女の「見つめ方」だった。

皿の模様、スプーンの重さ、店員の服の色。
右手にデジカメ、左手にメモ帳。
誰に頼まれたわけでもないのに、
彼女は記録していた。

「わたし、なんかジャーナリストっぽいね」

そう言って笑ったが、
その笑いは、少し照れ隠しのようだった。

午後の終わり。
呉服町の、すみやソフト館地下にある
地元FM局「K-MIX」のガラス張りスタジオへ。

公開生放送中。
彼女は常連リスナーだった。

「今日の山蔭さん。
声が柔らかくて、好き」

その人物は僕らに気づいたのか、
マイク越しに言った。

「おやおや、春爛漫なカップルがいますね〜。
彼氏は……リーゼント!
湘南爆走族みたいです!」

僕は苦笑し、肩をすくめた。
だが、彼女はさらに先を行った。

パンフレットの裏に何かを書き、
ガラス越しに掲げて手を振る。

《頑張って》
《ノリ悪くない?》

蛍光灯に照らされた、手書きの文字。

山蔭氏は、さらに声を弾ませた。

──こういう瞬間、
彼女の「人前での強さ」が顔を出す。
誰の目も気にせず、
場の空気を切り開いていく力。
僕には、持ち得ない性質だった。

夕方、駅前へ戻る。
人の流れのなか、
彼女は鞄を探りながら切符を取り出す。

「……静岡って、思ったより広いんですね」
「時間って、ほんと、あっという間なんですね」

何を言いたいのか、
互いに、わかっていた。
だが、具体的な言葉にはしなかった。

別れ際、握手も、見送りもなく、
ただ「また」と言って、
彼女は人混みに消えていった。

黒いレザーコートの背中が、
ゆっくりと、小さくなっていく。

──あの日の彼女を、僕は今も覚えている。

覚えている、というより、
思い出そうと思えば、思い出せる。
そのくらいの距離で。

甘いピンボケの写真。
紙ナプキンの走り書き。
食べかけのタルトの断面。
スケッチブックに描かれた、裸婦の線。

どれも、強い印象ではない。
それなのに、
なぜか一度も消えなかった。

ユカ。
特別な存在だったとは思わない。

ただ、
静岡の春の一日を、
たまたま一緒に過ごした相手だ。

それだけのことなのに、
あの街の匂いを思い出すと、
決まって、彼女のことが浮かぶ。

理由は、
今も、よく分からないままだ。

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2/12/2010

Facebookを始めてみた


   たいして友達もいないくせに、
Facebookを始めてみた。
 
やってみると、これが意外と楽しい。
誰にも見られていないのに、
見られている気分になる。
 
実名登録には賛否があるらしく、
「名前を出すなんて危ない」と
憤る人もいる。

けれど、たとえば本名を名乗るだけで、
少しだけ大人になったような気がするのだから、
仕組みって、よくできているものだ。

mixiでは、相変わらず
「死にたい」とか「フラれた」とか、
悲鳴のような言葉が目につく。

あれもきっと、一種の発声練習なのだろう。

SNSは、顔をどう見せるかで決まる場所だ。
表の顔と裏の顔を、うまく切り替えていれば、
誰も怒らない。

その話の続き──つまり金脈の話は、また今度にしよう。

これからの僕は、ネットの外側にも
少しずつ顔を出していく予定だ。

たとえば、知らない道を歩いてみるとか。
たとえば、ひとりでカフェに入ってみるとか。

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